ローマ人への手紙第1章には、神の永遠の力と神性は、天地創造からこのかた、被造物である私たち人間によって知られ、はっきりと認められると書かれています。人間は、創造主ではなく人間や被創造物を礼拝するようになりました。結果として彼らは自分を知者であると自負しながら、実際には、自分たちを愚か者へと貶め、また、神から与えられた指針を無視し、被創造物に仕えているのです。この世界の全ての善と光である神から離れた私たち人間は、堕落してしまいました。「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」(ホセア書4:6)
私たちが守らなければならない、しかし私たちの力ではそれが不可能な究極の教えが「十戒」です。十戒は堕落した私たち人間のために、神がモーセを通して与えた戒めです(出エジプト記20章3節から)。
- あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
- あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
- あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
- 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
- あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
- 殺してはならない。
- 姦淫してはならない。
- 盗んではならない。
- あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
- あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
この戒めは非常に厳しく、十戒の全てをきちんと守れる人間は誰一人いません。しかしイエスは、そのハードルを一段と高く上げました。イエスは十戒の精神に留意しながら、戒めを守ることから進んで、さらにレベルの高い清廉な行動を取るように説いています。
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 」(マタイによる福音書5:21-22)
マタイによる福音書の5章20節で、イエスは、私たちの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、決して天の御国には入れませんと教えています。(パリサイ人とは、人間は正しい行いをすることによって神に受け入れられると信じ、律法の遵守に励み、またそれを他人にも求めた人々のことです。)
「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27-30)
「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マルコ9:47)
「・・・つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。(中略)また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マタイ18:1、9)
「救われている」と思っていても、その言動において罪を犯している人は、天国に行くことはできません。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7:21-24)
使徒パウロは、神を信じ、救われているコリント地域の教会に属する人々に対し、こんな手紙を書いています。
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(第一コリント6:9-10) 第一テモテ4:1は、神を信じた人に向けて「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」と教えています。これは、キリスト教の信仰から離れている人々についての教えです。第二テモテ2:12には「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。」とあります。
神が私たちを離れたり、私たちを見捨てたりすることは絶対にありません。しかし私たちには、神から離れる選択もできる自由意志が与えられています。人間は、自由意志を持たないロボットのように造られたのではありません。神は自分の救いの計画を強要することなく、私たちの自由意志を尊重する方です。
「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」(ヘブル10:26)
「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(ヘブル10:29) 「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。 」(ヘブル6:4-8)
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」(ルカ11:23)
神を信じることには、行動が伴います。神の教えに従った行動を取り、自分の言動を省み、神を求め、神の声を受け、神に従うことが必要です。神を愛するという意思を示す唯一の方法は、神の教えに従い、自らの言動を通して神への従順を示すことに他なりません。イエスも「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)と言っています。
神の教えにのみ従うことが、心から神を愛していることの証明です。イエスが言っているように、神の戒めに従わないなら、それは神を愛していることにはなりません。
神と中途半端な関係を持つことの危険
クリスチャンの中にも、神との関係が中途半端になってしまっている人がたくさんいます。私たちはみんな、神のために時間を作り、神を探し、神を求めると言いながら、「ありふれた生活」に入りがちです。しかし「ありふれた生活」は、実は神から離れつつある危険な状態です。
「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。」(マタイ22:37) 「『しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えることはできません』」(ルカ16:13)
ここでイエスは「富」という言葉を使っていますが、名声や地位など、あなたにも、神よりも大切にしているものがありませんか?
天地の創造主の神として、イエスは「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:16)と言っています。あなたの心が神を愛していないのなら、自分でも気づかない内に、神とは反対の方向に向かってしまっているのです。
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)
そんなにたくさんの人がイエスを救い主として受け入れているのなら、どうしてこの世界はこんなに乱れているのでしょうか? 「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」(テトス1:16)
神は、善であると同時に、正義の神でもあります。だからこそ、地獄と呼ばれる神の裁きが存在するのです。神は正義であり、「神の教えに永遠に背き続ける」という悪をゆるさない方です。もし神が正義を実行しなければ、私たち人類は悪に冒され、悪に染まり、手のつけられない無法状態になってしまいます。こうした事態を防ぐため、神は私たちの言動を裁くのです。
悪に染まった人々は、地獄と呼ばれる場所で永遠を過ごすことになります。 「外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。」(マタイ22:13)
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)
「(御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、)火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ13:42)
「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」
(黙示録14:9-10)
「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(ヘブル10:31)
大きな白い御座で行われる最後の審判では、私たちはこうした景色を見ることになります「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙視20:15)
「(御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、)火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ13:42)
C・S・ルイスが語る神の性質
私たちは、神の正義を畏れる必要があります。C・S・ ルイス著『ナルニア国ものがたり』の「ライオンと魔女」に登場するライオンのアスランは、イエスの姿を現しています。ビーバーに導かれてライオンのアスランに会う途中で、ルーシーが言います。「わたし、その方を人間だとばかり思っていました。あの、危険なことありませんか?ライオンに会うなんていえば、びくびくしちゃうわ。」するとビーバーが叫びます。「危険か、ですと?危険か安全かなどということは、問題にならないんですよ。ライオンには違いないけれども、良い方なんです。」本物のライオンは、ユダ王国のライオンであり、イエスです。
ルーシーがアスランに会う場面では、彼女がアスランの足に触る様子が書かれています。その足は毛がふさふさしていて柔らかいのですが、敵が来ればすぐにその足から鉤つめが飛び出して、敵を引き裂くことができるようになっています。黙示録でも、イエスをライオンにたとえて語っている箇所があります。
「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。」(黙示録19:11-16)
罪と永遠の命の関係 ― 永遠の命に関する神の計画
神は、人間が地獄に行くことを露も望んでいません。かえって、人間として生まれ、十字架での悲惨な死をもってまでして、私たちが地獄に行くのを阻止しようとしたのです。地獄は火と苦しみの場所です。地獄は大悪魔と彼に仕える小悪魔のために造られた場所であり、そもそも、人間が行く場所として造られたのではありません。十字架の死を通し、神は私たちの罪をすべて取り去りました。私たちが負うべき刑罰は、イエスが十字架で死ぬことにより、すでに取り除かれたのです。いわば、神がアリとなってアリ塚にいるアリ(人間)に、「もうすぐブルトーザーが来て、このアリ塚がつぶされるぞ!」と警告してくれようなものです。
私たち人間は罪の性質を持っているために、神から離れています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)、また、ローマ6:23にあるように、神から離れている人間の「罪から来る報酬は死です。」(ここでの「死」とは、神との関係を持たないことを言います)。世界的に有名な伝道師のビリー・グラハムでさえ、イエス・キリストの愛により、かろうじてその罪がゆるされているのです。この事実は、誰よりもまずビリー・グラハム自身が認めることでしょう。
イエスがヨルダン川に来て、バプテスマのヨハネから洗礼を受けようとした時、バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました(ヨハネ1:29)。十字架で流されるイエスの血だけが、私たちの罪をゆるし、私たちに永遠の命を与えるのです。神ご自身が人間となって生まれ変わり、私たちの罪の刑罰を取り除いて下さったのです。
「神は愛です」(第一ヨハネ4:16)「愛には恐れがありません」(第一ヨハネ4:18)と言うヨハネの言葉は真実です。神が私たちに望んでいるのは、私たちが神を怖がったり、また私たちが苦しみにあうことではなく、私たちが神を畏れ、聖なる歩みと正しい言動を持つことです。
箴言28:14は「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」と語っています。神は愛の神であると同時にそむきの罪を嫌われる方であることをしっかりと覚えていれば、私たちは神の知恵により正しく生きることができます。主を畏れることは、私たちの礼拝に、日々の歩みに、仕事に、また発言に影響を与えます。「罪を犯す」とは、神への畏れを失うことです。地獄の意味を真に理解すれば、嘘をついたりすることはしないはずです。
天地創造の神との関係を持っていない、あるいは神との関係が薄れてしまっていたとしても、イエスを通して、神との力強い関係を築くことができます。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25)
「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』」(ヨハネ11:41)
*イエスがラザロの名前を呼ばなければ、墓にいる人がみんな生き返っていたことでしょう!
イエスを自分の救い主として受け入れたい、あるいはイエスから遠ざかってしまっていたけれど、自分の歩みを変えたいと心から思う人は、下記の祈りを捧げましょう。
「主なるイエス様。私の罪とこれまでの悪行のすべてをゆるして下さい。十字架で、私の罪の罰を取って下さり、あなたの血により私を清めて下さったことに感謝します。あなたを私の主、私の救い主として受け入れます。私の心のドアを開け、あなたを救い主・人生の主として受け入れます。私の罪をゆるし、永遠の命を与えて下さってありがとうございます。あなたの聖霊が私の心に入って下さいますように。私の人生を導き、あなたは、私だけが実行できる特別な目的を達成するために、私を造られました。この目的が達成できるよう、助けて下さい。」
この祈りを捧げたら、神が望まれるライフスタイルを維持し、堅実なキリスト教会に通い、聖書を読み、クリスチャンの友人との交わりを始めましょう。 |