神は存在するのか? 神とは誰?神の存在を実証する証拠 / 神はどんな方でしょう?

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聖書は、神が存在すること、神が自らのイメージに人間を創造したこと、また人間の性格の中に神の性質が反映されていることを説いています。私たちの罪をゆるし永遠の天国に導くため、神はそのひとり子、イエス・キリストをこの世に送りました。神は愛であり、道であり、真実であり、命です。イエスによる救いを信じる者に、永遠の死はありません。神は存在するのです。神の存在を示す証拠もあります。神は、父・子・聖霊からなる三位一体の神です。

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神の救いの計画 神は存在するのか?
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神は存在するのか? 神はいるのか?

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聖書が言うように神が人間を自らのイメージで造ったのなら、その性質が人間の中にも反映されているはずです。人間の心には、正しいことを行いたいという気持ちがあります。また、間違った行いをしている時には、絶対的な道徳規範に照らし合わせて、自分の言動を正そうとします。悪いことをしているのが見つかった子供は、「してはいけない」と知っていることを行った事実を、必死になって弁明します。冷酷無比に見える政治家も、自分たちの言動を体裁よく正当化しようと、労力を費やします。そして、独裁者は「人々のために」という言い訳を使って、市民の自由を崩壊させるのです。

C・S・ ルイスは『キリスト教の精髄』の中で、このことを適切に説明しています。「この宇宙を支配する神があるとしたら、それは宇宙に帰属するものではありえない。それはちょうど、建築家が家の壁や階段や備え付けの暖炉になりえないと同じことである。神が何かを伝えようと私たちの心の中に語りかける時にこそ、私たちは神の存在を感じる。そして私たちの心は、このような神の働きをまさに感じるのである。こうした事実こそ、私たちに神の実在を思わせるものではないか。」〔1〕

国や個人の置かれた状況によって、道徳観に多少の違いがあるのは事実でしょう。しかしルイスは、そうした違いは私たちが思っているほど大きな違いではなく、すべての国や状況において、結果的には同じ道徳律が流れていること、たとえば、洋の東西を問わず、誠実さが重要であることは自明だと説いています。「『進化』とは単なる変化ではなく、良い変化である。もし、道徳的・倫理的価値観がすべて等しく同じだと言うなら、『未開拓地域の道徳観よりも、文明社会の道徳観が良い』あるいは『ナチの道徳観よりもキリスト教の道徳観が良い』などという会話は成立し得ないはずだ」〔1〕

ある道徳観が他の道徳観の方が優れていると言うことは、「Aの道徳観のほうが、Bの道徳観よりもより規範に近い」と言っていることに他ならず、つまり私たちがある一定の規範にしたがって、そのふたつを比べていることになります。しかしこの規範は、A・Bから独立したものであり、ルイスはこう説明しています。「つまり、あなたはそのふたつを、『真の道徳』を基準に比べているのであり、他の人の考えと全く関係ない、そして他の人間の意見など及びもつかない『本当の正義』を認めているのである。あなたの道徳的価値観がより真実に近く、ナチの道徳観は真実より遠いと言うならば、『真実』となる何か(つまり真の道徳)があるはずだ。」〔1〕

「真の道徳」こそ、「宇宙の支配者」により私たちの心に刻み込まれた絶対規範なのです。美しい宇宙を創り出した「宇宙の支配者」は、卓越した才能を持つ芸術家です。また、フェアプレイ、無私、勇気、善意、真実、誠実といった正しい言動に非常に強い思いを持っています。

絶対的道徳律を創った「宇宙の支配者」は、その厳しい理念を守る方です。そして「真の道徳」に逆らう人間にとっては、恐ろしい存在です。道徳律を創った「宇宙の支配者」は、正義と公正の神であり、その法を破ることは決してありません。「道徳律を前にしては、寛大、柔和、思いやりといった意味の神の『善』は存在しない。道徳律には、一切の情状酌量も適応せず、それは釘のように難く、厳しい。」〔1〕

正義に対し非常に強い思いを持っている「宇宙の支配者」は、間違った行いを裁きます。ローマ人への手紙の中で、使徒パウロは以下のように明言しています。

「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。」(ローマ2:12-14)

道徳律は、私たちの心にしっかりと根ざしています。この世が不公平で残虐に見えるからと言って神を否定する人もいるでしょうが、その「公平」「不公平」という考えは、どこから来ているのでしょうか?「人は『直線』という意識がなければ、『線が曲がっている』という発言をすることはない。」〔1〕とあるように、私たちの心の中には、神の道徳律(すなわち直線)が刻み込まれているのです。そしてその厳しい法を破る時に、神の怒りを引き起こすのです。


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神の道徳律を破らないことは不可能です。一日、一週間の中で、私たちはどうしても、その厳しい道徳律の教えを破ってしまいます。使徒パウロは、「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。』」(ローマ3:10-12)と説明し、人間の正義は、神の道徳律に届かないと言っています。

ということは、私たちが「宇宙の支配者」である神の怒りに触れることは避けられないのでしょうか?この問題に対する答えの鍵は、神とはどんな存在かを理解する所にあります。創造物である人間は、神の性質を100%理解することはできませんが、神の創造物を通して、その性質の一端を垣間見ることができます。マイケル・へリングの『ソロモンの理念を理解する』にはこう書いてあります。「重力、熱力学、物体、エネルギーといった物理の法則は、全世界共通であるし、他の銀河系に行ったとしても、こうした法則が適応されるであろう。そこには秩序があり、地球には大きな実りがある。穀物が育ち、収穫の時期を迎える。海は生命にあふれ、太陽は生命体の維持に必要な距離に位置している。美しい何百という蝶が、木が、花がある。無作為な進化の過程で生まれるよりもずっと多くの生命体が満ち溢れている。」〔2〕

キリスト教では、「すべての人間には欠点があり、神の道徳律を確実に守ることができない。このため、神がイエスという人間としてこの世に生まれ、十字架で死ぬことによって、私たちの罪を取り去ってくれた」と教えています。私たちがしなくてはならないことは、イエス・キリストを「肉体という有限の形になって生まれた神、神のひとり子である」と信じることだけです。罪に汚されていないのは、神だけです。何千年もの昔には、鳩や初子の子牛、羊などが罪の贖いの生け贄として捧げられました。しかし最高の生贄は、罪を持たない唯一の存在である神その人に他なりません。バプテスマのヨハネがイエスを見た時、彼が言ったとおりです。「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1:29-30)

神はあなたのことを心から愛しています。だから、神の存在しない地獄ではなく、神が住まわれる天国で、あなたと永遠を過ごしたいと望んでいるのです。神はあなたとの永遠の別離を拒否し、あなたの罪の身代わりとなるイエスをこの世に送ったのです(第一ヨハネ4:10)。

あなたの罪がゆるされる「救い」は、救い主であるイエスを通して与えられる、無償のプレゼントです。救いを手に入れるために、努力をする必要はありません。中世のクリスチャンやヒンズー教の僧侶のように、自分の体を痛めつけるような修行はいらないのです。仏陀と一体となるために自らのカルマを落とし、何千年もの時を経て輪廻する必要もありません(「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、・・・」へブル人への手紙9:27)。解脱するために、この世界から自らを切り離したり、自分を押し殺す必要もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができません(ローマ人への手紙3:23)。あなたがどんなにひどい罪を持っていたとしても、自分の救い主としてイエスを受け入れることで、あなたには永遠の命が与えられるのです。イエスはこう言っています。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。』」 (ヨハネ14:6-7)

またイエスを知ることで、私たちは神自身を知り、見たことになるのです。 「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』」(ヨハネ8:58)

またヨハネも、以下のような力強い言葉を残しています。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:1-4)

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

「イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたから」(ヨハネ5:18)とあるように、イエスの同胞であるユダヤ人は、彼の発言の意味をしっかりと理解したからこそ、イエスを殺そうとしたのです。ソロモンの神殿ではこんな出来事がありました。

「『わたしと父とは一つです。』ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。『わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。』ユダヤ人たちはイエスに答えた。『良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。』」(ヨハネ10:30-33)

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ルイスが指摘したように、イエスの言動を見る限り、彼は精神異常者か、あるいは本当にそのとおりの人だという結論になります。

人間としてのイエスには、神の力が体現されています。イエスは視覚や聴覚に障害のある人、体が麻痺している人、怪我をして血を流している人、体が曲がってしまった人、生命にかかわる高熱を出している人など、あらゆる病人や障害者を癒しました。また、荒れ狂う海を沈めたり、水の上を歩いたりして、自分が自然の法則に縛られないことも証明しました。悪霊を祓い、悪魔に憑かれた人を解放しました。水をワインに変えたり、わずかばかりの魚とパンから数千人分の食事を用意したりして、分子の法則を変えました。死人をよみがえらせ、また彼自身も、私たちの罪の身代わりとして壮絶な死を遂げた後に、よみがえりを遂げています。水の上を歩き、死からよみがえり、奇跡を成し遂げた預言者が、指導者が、この世界のどこにいたでしょうか?彼らはみんな、死んで墓の中。彼らが謳歌した一瞬の栄光は、墓の中で永遠に封印されています。

イエスには、超人的な力がありました。同時に、彼は思いやりに溢れ、人のために奇跡を行い、神の性質を知るための大切な見識を私たちに与えてくれたのです。恵み深いイエスが伝えた一番大切なメッセージは、「イエスを神のひとり子として信じること、また人間がお互いに愛し合うこと」です。イエスが教える神は、心の狭い、すぐに怒るような神ではありません。イエスが教える神は、慈悲深く、思いやりと愛に満ち溢れる神です。その超人的な力をもってすれば、イエスがローマ帝国の支配からユダヤ人を解放し、この世で王となることなど何でもないことでした。しかし代わりに、イエスを信じるものが一人として滅びることのないよう、彼は粗末な木の十字架の上で死んだのです(ヨハネ3:16)。

宇宙を創造した神が人間として生まれ、救いを知らない罪人のために屈辱的な死を受け入れる・・・。人間の知識で、こんな話を思いつくはずがありません。私たちには理解できない愛の姿が書いてあるからこそ、これが神の言葉だと信られるのです。

神はまた、人間の自由意志を尊重するという性質を持っています。もちろん神は、人間をロボットのように造ることもできました。しかし神は、私たち人間に自由意志を与え、神を否定する選択を与えたのです。神はアダムに、「善悪の知識の木」の実を食べたら死んでしまうから、この実を食べてはいけないと教えました(創世記2:17)。しかしその命令は、神の完全な管理下にあったわけではありません。アダムが意志すれば、その実を食べて罪を犯すことは可能だったのです。蛇にそそのかされたエバは、自由意志の元にその実を食べ、その実を受け取った夫のアダムもこれを食べました。神の指示にそむいた彼らの罪が、彼らに死をもたらしたのです。

しかし人間を愛する神は、彼らが犯した罪への贖いを準備していました。唯一完璧な贖いの生贄として、神ご自身がイエスという人間の姿をとり、私たちの原罪のために死ぬ・・・。これが神の贖いの計画です。

あなたがこの事実を信じられなくても、これが神様の計画であることを忘れないで下さい。神は宇宙の支配者であり、聖書の著者です。神が聖書の著者であることを示す証拠もたくさんあります。

神は、自分の仲間として、友人として、アダムを造りました。しかしアダムの罪がこの関係を壊してしまったのです。それでも、あわれみとゆるしの神は、私たち一人一人と永遠の友人関係を持ちたいと思っています。神との友人関係を持つには、神のひとり子が私たちを救ってくれたこと、そしてそのことの故に永遠の命を持つことができると信じるだけです。神のひとり子を信じない人、彼に従わない人は天国を見ることなく、神の怒りがその上に止まります。

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神を信じることに関し、パウロはローマ人への手紙の中でこう書いています。「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:24-25)

「イエスを信じるものは御子を信じる者はさばかれません。しかし、彼を信じない者は、神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれているのです。(ヨハネ3:18)

何かを信じることは、自分の基本あるいは確信をそこに置くことに似ています。イエスは彼の言葉を信じるよう、私たちに強く勧めています。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)

キリスト教の基本は、生ける神と永遠の関係を持つことにあります。私たちが「死後の永遠を過ごす状況」は、非常に重要です。キリスト教は、死んだ後も私たちの体が生き続けると教え、死後の私たちに、病気することもなく、死ぬこともない新しい体を神が与えて下さると約束しています(ローマ8:23)。死と言えども、私たちを神の愛から引き離すことはできません(ローマ8:38)。イエスもはっきりと約束しています。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。』」(ヨハネ11:25-26)

使徒パウロは、土に落ちた種にたとえて、死を語っています。種はまず地に落ちて一度死ななければ、芽を出すことはできません。種から元気よく出てくる若芽は、地に落ちた種とは全く違うものです。同じように、人間の肉体の機能が停止すると、神様が新しい、美しい体を与えて下さるのです。肉体にとって、病気や死は不可避です。しかしこの弱い人間の肉体は、死を通して超人的な体へと変えられます。滅び行く私たちの肉体に取って代わり、永遠にふさわしい美しい体が与えられるのです。(コリント人への手紙第一15章)

私たちはアダムのように土で造られた体を持っています。しかし、キリストを信じ、キリストのものとなった人はみんな、天から出たキリストに似たものになります。(コリント人への手紙第一15章)

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神を信じれば、それで終わり?
~慈悲深い神。しかしその正義は
かみそりの刃のように厳しい~
動きの蝶クリップアート;主題のための装飾: 神は存在するのか?キリスト教の精髄: 神を信じれば、それで終わり?
            ~慈悲深い神。しかしその正義はかみそりの刃のように厳しい~。指す矢; 最初に戻る。

ローマ人への手紙第1章には、神の永遠の力と神性は、天地創造からこのかた、被造物である私たち人間によって知られ、はっきりと認められると書かれています。人間は、創造主ではなく人間や被創造物を礼拝するようになりました。結果として彼らは自分を知者であると自負しながら、実際には、自分たちを愚か者へと貶め、また、神から与えられた指針を無視し、被創造物に仕えているのです。この世界の全ての善と光である神から離れた私たち人間は、堕落してしまいました。「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」(ホセア書4:6)

私たちが守らなければならない、しかし私たちの力ではそれが不可能な究極の教えが「十戒」です。十戒は堕落した私たち人間のために、神がモーセを通して与えた戒めです(出エジプト記20章3節から)。

  1. あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
  2. あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
  3. あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
  4. 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
  5. あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
  6. 殺してはならない。
  7. 姦淫してはならない。
  8. 盗んではならない。
  9. あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
  10. あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

この戒めは非常に厳しく、十戒の全てをきちんと守れる人間は誰一人いません。しかしイエスは、そのハードルを一段と高く上げました。イエスは十戒の精神に留意しながら、戒めを守ることから進んで、さらにレベルの高い清廉な行動を取るように説いています。

「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 」(マタイによる福音書5:21-22)

マタイによる福音書の5章20節で、イエスは、私たちの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、決して天の御国には入れませんと教えています。(パリサイ人とは、人間は正しい行いをすることによって神に受け入れられると信じ、律法の遵守に励み、またそれを他人にも求めた人々のことです。)

「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27-30)

「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マルコ9:47)

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「・・・つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。(中略)また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マタイ18:1、9)

「救われている」と思っていても、その言動において罪を犯している人は、天国に行くことはできません。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7:21-24)

使徒パウロは、神を信じ、救われているコリント地域の教会に属する人々に対し、こんな手紙を書いています。

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(第一コリント6:9-10)

第一テモテ4:1は、神を信じた人に向けて「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」と教えています。これは、キリスト教の信仰から離れている人々についての教えです。第二テモテ2:12には「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。」とあります。

神が私たちを離れたり、私たちを見捨てたりすることは絶対にありません。しかし私たちには、神から離れる選択もできる自由意志が与えられています。人間は、自由意志を持たないロボットのように造られたのではありません。神は自分の救いの計画を強要することなく、私たちの自由意志を尊重する方です。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」(ヘブル10:26)

「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(ヘブル10:29)

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。 」(ヘブル6:4-8)

「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」(ルカ11:23)

神を信じることには、行動が伴います。神の教えに従った行動を取り、自分の言動を省み、神を求め、神の声を受け、神に従うことが必要です。神を愛するという意思を示す唯一の方法は、神の教えに従い、自らの言動を通して神への従順を示すことに他なりません。イエスも「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)と言っています。

神の教えにのみ従うことが、心から神を愛していることの証明です。イエスが言っているように、神の戒めに従わないなら、それは神を愛していることにはなりません。

神と中途半端な関係を持つことの危険

クリスチャンの中にも、神との関係が中途半端になってしまっている人がたくさんいます。私たちはみんな、神のために時間を作り、神を探し、神を求めると言いながら、「ありふれた生活」に入りがちです。しかし「ありふれた生活」は、実は神から離れつつある危険な状態です。

「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。」(マタイ22:37)

「『しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えることはできません』」(ルカ16:13)

ここでイエスは「富」という言葉を使っていますが、名声や地位など、あなたにも、神よりも大切にしているものがありませんか?

天地の創造主の神として、イエスは「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:16)と言っています。あなたの心が神を愛していないのなら、自分でも気づかない内に、神とは反対の方向に向かってしまっているのです。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)

そんなにたくさんの人がイエスを救い主として受け入れているのなら、どうしてこの世界はこんなに乱れているのでしょうか?

「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」(テトス1:16)

神は、善であると同時に、正義の神でもあります。だからこそ、地獄と呼ばれる神の裁きが存在するのです。神は正義であり、「神の教えに永遠に背き続ける」という悪をゆるさない方です。もし神が正義を実行しなければ、私たち人類は悪に冒され、悪に染まり、手のつけられない無法状態になってしまいます。こうした事態を防ぐため、神は私たちの言動を裁くのです。

悪に染まった人々は、地獄と呼ばれる場所で永遠を過ごすことになります。

「外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。」(マタイ22:13)

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「(御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、)火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ13:42)

「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」 (黙示録14:9-10)

「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(ヘブル10:31)

大きな白い御座で行われる最後の審判では、私たちはこうした景色を見ることになります「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙視20:15)

「(御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、)火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ13:42)

C・S・ルイスが語る神の性質

私たちは、神の正義を畏れる必要があります。C・S・ ルイス著『ナルニア国ものがたり』の「ライオンと魔女」に登場するライオンのアスランは、イエスの姿を現しています。ビーバーに導かれてライオンのアスランに会う途中で、ルーシーが言います。「わたし、その方を人間だとばかり思っていました。あの、危険なことありませんか?ライオンに会うなんていえば、びくびくしちゃうわ。」するとビーバーが叫びます。「危険か、ですと?危険か安全かなどということは、問題にならないんですよ。ライオンには違いないけれども、良い方なんです。」本物のライオンは、ユダ王国のライオンであり、イエスです。

ルーシーがアスランに会う場面では、彼女がアスランの足に触る様子が書かれています。その足は毛がふさふさしていて柔らかいのですが、敵が来ればすぐにその足から鉤つめが飛び出して、敵を引き裂くことができるようになっています。黙示録でも、イエスをライオンにたとえて語っている箇所があります。

「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。」(黙示録19:11-16)

罪と永遠の命の関係 ― 永遠の命に関する神の計画

神は、人間が地獄に行くことを露も望んでいません。かえって、人間として生まれ、十字架での悲惨な死をもってまでして、私たちが地獄に行くのを阻止しようとしたのです。地獄は火と苦しみの場所です。地獄は大悪魔と彼に仕える小悪魔のために造られた場所であり、そもそも、人間が行く場所として造られたのではありません。十字架の死を通し、神は私たちの罪をすべて取り去りました。私たちが負うべき刑罰は、イエスが十字架で死ぬことにより、すでに取り除かれたのです。いわば、神がアリとなってアリ塚にいるアリ(人間)に、「もうすぐブルトーザーが来て、このアリ塚がつぶされるぞ!」と警告してくれようなものです。

私たち人間は罪の性質を持っているために、神から離れています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)、また、ローマ6:23にあるように、神から離れている人間の「罪から来る報酬は死です。」(ここでの「死」とは、神との関係を持たないことを言います)。世界的に有名な伝道師のビリー・グラハムでさえ、イエス・キリストの愛により、かろうじてその罪がゆるされているのです。この事実は、誰よりもまずビリー・グラハム自身が認めることでしょう。

イエスがヨルダン川に来て、バプテスマのヨハネから洗礼を受けようとした時、バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました(ヨハネ1:29)。十字架で流されるイエスの血だけが、私たちの罪をゆるし、私たちに永遠の命を与えるのです。神ご自身が人間となって生まれ変わり、私たちの罪の刑罰を取り除いて下さったのです。

「神は愛です」(第一ヨハネ4:16)「愛には恐れがありません」(第一ヨハネ4:18)と言うヨハネの言葉は真実です。神が私たちに望んでいるのは、私たちが神を怖がったり、また私たちが苦しみにあうことではなく、私たちが神を畏れ、聖なる歩みと正しい言動を持つことです。

箴言28:14は「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。」と語っています。神は愛の神であると同時にそむきの罪を嫌われる方であることをしっかりと覚えていれば、私たちは神の知恵により正しく生きることができます。主を畏れることは、私たちの礼拝に、日々の歩みに、仕事に、また発言に影響を与えます。「罪を犯す」とは、神への畏れを失うことです。地獄の意味を真に理解すれば、嘘をついたりすることはしないはずです。

天地創造の神との関係を持っていない、あるいは神との関係が薄れてしまっていたとしても、イエスを通して、神との力強い関係を築くことができます。

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25)

「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』」(ヨハネ11:41)

*イエスがラザロの名前を呼ばなければ、墓にいる人がみんな生き返っていたことでしょう!

イエスを自分の救い主として受け入れたい、あるいはイエスから遠ざかってしまっていたけれど、自分の歩みを変えたいと心から思う人は、下記の祈りを捧げましょう。

「主なるイエス様。私の罪とこれまでの悪行のすべてをゆるして下さい。十字架で、私の罪の罰を取って下さり、あなたの血により私を清めて下さったことに感謝します。あなたを私の主、私の救い主として受け入れます。私の心のドアを開け、あなたを救い主・人生の主として受け入れます。私の罪をゆるし、永遠の命を与えて下さってありがとうございます。あなたの聖霊が私の心に入って下さいますように。私の人生を導き、あなたは、私だけが実行できる特別な目的を達成するために、私を造られました。この目的が達成できるよう、助けて下さい。」

この祈りを捧げたら、神が望まれるライフスタイルを維持し、堅実なキリスト教会に通い、聖書を読み、クリスチャンの友人との交わりを始めましょう。

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾: 三位一体の重要性 三位一体の重要性 動きの蝶クリップアート;主題のための装飾: 神は存在するのか?キリスト教の精髄: 三位一体の重要性 指す矢; 最初に戻る。

三位一体を理解することは、非常に重要です。聖書には、神は自らを父・子・聖霊の3つの異なる姿で表すと書いてあります。

「神は唯一です。」(第一テモテ2:5)「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)とあるように、唯一の神が存在することは明白です。しかし、「神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、・・・」(創世記3:22)「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・」(創世記1:26)を見ると、神が3人称複数形で自らを示しており、唯一神の中に複数性が存在していることが分かります。

三位一体の非常に初歩的な説明として、水の形態が挙げられます。水は液体、気体、固体の3種類で存在しますが、どの形態であれ、それが水であることには変わりありません。しかし今も生きており、また性格や思いを持っておられる三位一体の神を説明するには、水を使った説明は全く不十分です。この世界の創造主である神は、その創造物とは一線を画した存在であり、哲学で語られるような人格のない「力」ではないのです。

三位一体とその性質を理解するには、神による罪の贖いを理解することが不可欠です。人間の罪を贖うためには、一切の罪をもたない神ご自身が人間として生まれ、贖罪のための生贄となる必要がありました。イエスが偉大な思想家や哲学者だったとしても、原罪を背負った人間でしかなければ、彼が死んだ所で人間の救いには不十分です。ただの人間が死んでも、人間と神との間の溝は埋められませんし、永遠の命を得ることもできません。つまり人間の救いは人間から生まれるのではなく、天の神から与えられるものなのです。十字架で死んだ人間はたくさんいます。しかし全人類の罪が贖われるためには、神の子が十字架で死ぬ必要がありました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)、「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)といった聖句をみれば、神がイエスという人間として生まれたことがわかります。

ニュー・エイジや東洋哲学の信奉者は、こうした意見を曲解し「イエスは私たちの心に内在する神への思いを示しているだけであり、人間はみんな天の父なる神とひとつである」と主張します。しかしヨハネの10:30-37は、神の言葉を受けた預言者として神と呼ばれた人々と、天の父その人に直接遣わされ、犠牲となったイエス自身との違いをはっきりと示し、「それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいる・・・」と言っています。

イエスの神格を証明する彼の奇跡の数々は、単なる人間には実行不可能です。

「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14:11)

「わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。 にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。」(詩篇82:6-7)

カルトやニュー・エイジでは、すべての人間は神になる潜在性がある、あるいは自らに自覚があれば、その人はすでに神であるという教えを信じています。しかし墓の中からよみがえった唯一の人間は、歴史上、神のひとり子イエス・キリストをおいて他にはありません。

C・S・ルイスの『キリスト教の精髄』には、この件に関する重要な見解が書かれています。

「『完璧であれ』という教えは、決して理想主義的な冗談ではないし、不可能な命令でもない。彼は、この命令に従える者に、私たちを造っていくのだ。(聖書の中で)彼は、我々は『神』と共にあったと語っている。彼はその言葉を守る人だ。私たちには彼を拒否する選択権がある。しかし、もし私たちが彼を認め、彼の働きをゆるすのであれば、彼は私たちの最も弱い、最も汚い心から、私たちを神に似たものに、あるいは善と輝きを放つ不死の存在に変える。私たちは、神の無限の力と歓喜と善を完璧を映し出す、しみのない綺麗な鏡になり(もちろん、神と比べれば、もっと小さなスケールであるが)、今の私たちには想像もつかないようなエネルギーと喜びと知恵と愛に心躍らせるようになる。このような存在に変えられるプロセスは、長く、時には非常な痛みを伴う。しかし、これこそが私たちの姿であり、これ以上でもこれ以下でもない。彼は、自分の言葉を守る人であり、彼が言ったことはそのまま真実なのである。」

神は私たちをダイヤの原石として捉えています。私たちがイエスを受け入れることにより、神が私たちを磨き、変えて下さるのです。この過程において、私たちのエゴが削り落とされ、神の意思を求めるようになります。またこの過程が一生続く中で、神の意思を求める心が強くなるよう、変えられていきます。

聖霊は、神の第3人格であり、神と聖霊はひとつです。「そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』」(使徒行伝5:3-4)

ここにあるとおり、聖霊に嘘をつくことは、すなわち神に嘘をつくことです。

C・S・ルイスは、三位一体についても詳しく説明しています。

「一人の人間に3つの人格があるというシナリオやパターンは、私たち一人一人の中にも見られる。あるいは逆に、私たち一人一人がそのパターンの中に入り、それを実現していることもある。私たちが神により造られたという喜びに勝る喜びはない。良いことも悪いことも、私たちの中にはある種のパターンがある。暖を取りたければ、ストーブの近くに行くし、濡れたければ水の近くに行く。喜びや力、平和、永遠の命が欲しければ、それを提供できるものの近くに、あるいは思い切ってその中に入るであろう。喜びや力、平和、永遠の命は、神が誰かに与える賞品ではない。それは、現実のど真ん中からほとばしるエネルギーと美の源である。近くに行けば、神のしぶきがあなたを濡らす。しかし近くに行かなければ、あなたは乾いたままだ。人間が神とひとつになって、どうして永遠に生きられないことがあろうか?神が人間から離れたら、枯れしぼんで死ぬ以外、何ができるというのか」

イエスを信じることで、私たちは父・子・聖霊なる三位一体の神と、ダイナミックでドキドキするような関係を築くことができます。

「・・・わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 (ヨハネ14:19-21)

イエスに関し、バプテスマのヨハネは次のように語っています。

「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:11)またイエスが、助け主、慰め主として聖霊を送るとも書いてあります(ヨハネ15:26)。私たちがイエスを愛するのであれば、イエスは、私たちのために父なる神に聖霊を求め、その聖霊は、いつまでも共にいて下さるのです。(ヨハネ14:16)

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾:三位一体に関する聖書的証拠 三位一体に関する聖書的証拠 指す矢; 最初に戻る。

父・子・聖霊の三位一体の神に関しては、聖書にもたくさんの記述があります。

イエス・キリスト

聖書の中では、イエスと神を同等に扱っている箇所がたくさんあります。創世記1:1では、神が天と地を造ったとあります。このことを参考にした上で、下記の聖句を見て見ましょう。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:1-4)

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪のゆるしを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:13-17)

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」(ヨハネ8:58-59)

「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」(ヨハネ5:18)

ここで、先ほどのアリ塚の例を考えて見ましょう。あなたがアリとコミュニケーションを取りたいと思った時、一番良い方法は自分自身がアリになり、アリの言葉で彼らに語りかけることだとは思いませんか?同じように、神もイエスという人間の姿を通して神ご自身の性質を表され、私たちが分かる言葉で、私たちとコミュニケーションを取ろうとしたのです。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」
(ヨハネ5:39)

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネ14:7)

《「『わたしと父とは一つです。』ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。『わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。』ユダヤ人たちはイエスに答えた。『良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。』」(ヨハネ10:30-10:33)

「『だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:13-15)

聖霊

聖霊は単なる力や霊魂ではありません。聖霊はきちんとした性質を持った神格であり、その性質に基づいて話したり、意志したり、愛を持って私たちと接します。創世記の一章には「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。またイエスは神からの最も大切な教えとして「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)という言葉を引用し、ユダヤ人もみんな、この教えには同意しています。

聖書の原語のひとつであるヘブル語で神という単語は「Elohim」です。この単語は、神をあらわす複数形の名詞であり、正確には「神々」という意味になります。また、こうした聖句に登場するヘブル語の「ひとつ」は「Ekad」という単語で、これは「ひとつにまとめられたもの」という意味です(たとえば5本の指がひとつになって拳となっている様子を表現する時に使われます)。ヘブル語の「唯一絶対」を意味する単語は「Yachid」であり、この単語の場合には三位一体の神という意味が失われることになります。しかし、聖書で使われているのは「Ekad」であり「Yachid」ではありません。こうした事実も考えあわせ、クリスチャンは、父・子・聖霊の性質を持つ唯一の神が、神の目的、掟、働きの中に働かれることを信じているのです。

聖霊の神格的性質

聖霊が神であることを理解するには、聖霊が神の性質を持っていることを証明する聖書を見ることです

A. 神は永遠の存在である。

「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
(ヘブル9:14)

B. 神は全知である。

「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。」(第一コリント2:11)

「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。」詩篇139:7-10

C. 神は全能である。

ルカ1:35では、聖霊と至高の神を同等に捉えてこう言っています。「御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』」

聖霊の働き

聖霊は性質だけでなく、その働きにおいても神と同じ特質を持っています。天地創造には、父・子・聖霊が等しくかかわりました。「Elohim」と呼ばれる複数の神が、この天地の創造主なのです。ヨハネの1:3では「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と言って、イエスが天地創造にかかわっていたことを証言しています。

三位一体や神の複数性について触れている聖書の他の箇所を見てみましょう。

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16)

「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」(創世記1:26)

「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』」(創世記3:22)

大小の生き物の創造に関し、詩篇104:30では「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます。」と言い、聖霊が天地創造にかかわっていたことが分かります。聖霊が水の上を動くことにより、光が生まれ、光と闇が分かたれたのです。

神と同じように、聖霊は命を与えます。パウロはその書簡の中で、律法は死をもたらすが、聖霊は命を与えると書いています。イエスもヨハネの6:63で「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と語っています。また、ペテロの手紙第2の1章では「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」と言って、聖霊が私たちを導くことにも触れています。

聖書に見る父・子・聖霊の関係

イエスは、すべての人が父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるようにと教えました。つまり、聖霊は三位一体の父・子と関係を持つ神格であり、風や力ではないことが分かります。

「・・・すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(第二コリント13:12-13)

また聖霊は教会の中でも働きます。「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。 」(第一コリント12 4-6)とあるように、教会活動の中に、聖霊と子と父なる神が働いていることが分かります。

最後に、三位一体の神と聖霊の働きについて触れているエペソ人への手紙4:4-6を見てみましょう「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。 」

聖霊は神である

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

「そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』」(使徒行伝5:3)

「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3:15-18)

神は神である

「神はモーセに仰せられた。『わたしは、「わたしはある。」という者である。』」(出エジプト3:14)

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参考文献
〔1〕 Lewis, C.S, Mere Christianity, The Macmillan Company, New York, New York, 1958, pp. 11, 19, 23, and 31.
〔2〕 Herring, Michael, Succeed With Solomon’s Principles, Winepress Publishing, Enumclaw, Washington, 1998

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(英語)
はじめに
1.目次
2 神は存在するのか?
3 魔術とヨーガ
4 天国への道
5 神が実在する証拠
6 神の愛と怒り
7 キリスト教以外の宗教や思考体系
8 偽りの神や預言者
9天地創造論VS. 進化論
10 その他のリンク
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