イエスは「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:18)と言い、パウロは「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(第一コリント15:13ー19)と言いました。復活の現実性と史実性は、キリスト教の最重要ポイントです。死からの復活により、イエスは自分が神の御子であることを公に証明したのです。(ローマ1:4)
R・マッケイン・エドガーは『復活した救い主の福音』で、
「『師』である彼は、死後、その墓から再びよみがえることにより、自らの能力に関するすべての発言を、穏やかに公言しているのである。イエス以前も、イエス以後も、このような発言がなされたことは一度もない。桁外れとも言えるイエスの発言に対し『預言を学ぶ神秘主義者が生み出したものに過ぎない』あるいは『福音書の話の一部として挿入された』といった議論は、物事を信じやすい私たち人間にとっては、非常に紛らわしく混乱を呼ぶものだ。しかし、墓からよみがえり、私たちの目の前に立つ能力に自分のすべてをかけようというイエスは、あらゆる『師』の中でも最も独創的人物である。自らの証言どおりに生きた彼の教えが、その人となりが、燦然と輝いているではないか!」 イエスは自らの復活を予測し、また死からのよみがえりこそが、自分の救世主としての立場を示す「しるし」であると強調しています。(マタイ12 38-40、16 21、17 9、17 22-23、20 18,19、26 32、 27 63、マルコ8 31、9 1、9 10、9 31、 10 32-34、14 28・58、ルカ9 22、ヨハネ2 18-22、12 32-34)
「そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(ヨハネ2:18-22)
歴史学的に考えても、イエスの復活が一定の時空間の中で起きたことが分かります。著名な研究者であり教育者であるウィルバー・スミスはこう言っています。
「復活の意味(・・)は、神学的問題であり、復活の事実(・・)は歴史学的問題である。復活したイエスがどのような身体的状況にあったかは謎かもしれないが、彼の遺体が実際に墓からなくなったことは、歴史学的証拠として見極められなければならない。墓所がはっきりしていたこと、墓の所有者が事件発生後も数十年は存命だったこと、墓が頑強な岩で造られていたこと、また地理的重要性のあるエルサレム近くの丘にあったこと、墓の前にはオリンポス神殿の天使ではなく、ローマ兵が配置されたこと、サンヘドリンがエルサレムで定期的に行われる会議の名前であったこと・・・。そして何よりも、イエスがただの人間だったのか神の御子だったのかはともかく、実在の人物であり、弟子を従えながら人々と共に食事をし、眠り、苦しみ、働き、死んだ『よみがえりの主』について教えを説いていたことは、数多くの書物に書かれている。こうした事実の議論は『教義的』問題ではなく、あくまで『歴史学的』問題である。(中略)イエスの死の直前あるいはその今わの際のエルサレムの状況は、世界中の誰が死んだ時よりも詳しく書かれている」〔1〕
キリスト復活の証拠は、十分過ぎるほどあります。その一部をここにご紹介しましょう。
1.歴史の証言
紀元1世紀末に生きたユダヤ人歴史家のヨセフスは『ユダヤ古代誌』でこう述べています。
「この時代にイエスが生きた。イエスは驚くべき奇跡を行い、その教えを喜んで受け入れる人々から師とされた。もしあえて彼のことを『人間』と呼ぶのであれば、彼は非常に知恵のある人であった。彼は、たくさんのユダヤ人とギリシア人の心を捉えた人物であり、キリストであった。ピラトがユダヤ最高権力者による告発を聞き、彼を十字架の刑に定めた時にも、彼を愛した人々は彼をあきらめなかった。そして神の預言者たちが預言したように、彼は3日目に甦り、彼の信奉者の前に姿をあらわした。そして、彼にちなんで名づけられたキリスト教徒たちは、今日においても霧散することなく未だに彼を信じている」
ヨセフスは、ローマ人を喜ばせようとしていたユダヤ人です。この話が真実でなければ、また、キリストを罪に定めたピラトに関するこの記述がローマ人の喜ぶものでなければ、彼がこうした話を書いたはずがありません。 2. 弟子たちの証言
ハーバード法化大学院のサイモン・グリーンリーフ教授は、使徒たちの証言について、著書の中でこう説明しています。
「弟子たちは、『キリストの復活、罪の告白とキリストに信仰を持つことだけに、真実がある』と宣誓している。弟子たちは、恐ろしいまでの拷問にさらされた時にも、一様にこの教義を主張している。彼らの師匠は、悪人として死刑になったばかりであり、その教えは、世界中の宗教や哲学を覆すものであった。世界中のあらゆる法律や掟は、その教えに反しており、世界中が彼らの敵であった。どんなに当たり障りないように、平和裏に収めようとしても、この新しい信仰を伝える彼らを待っていたのは、侮辱、反対、罵倒、迫害、投獄、拷問、残酷な死であった。
それでも、彼らは自分の信仰を必死に伝えようとした。彼らが耐え忍んだあらゆる困難は、落胆ではなく喜びを呼んだ。弟子たちが次々と悲惨な殉教を遂げ、生き残った者たちは迫害の只中に置かれた時にも、彼らは活力に満ち、その信念をさらに強くしていった。戦争中の軍の記録でも、このようにたゆまぬ英雄性、忍耐、勇気ある前向きな姿勢はほとんど見られない。彼らを落ち込ませ、悲しませる出来事は日常茶飯事であった。そうした状況の中で、彼らが自分たちの信仰の土台を、そして自分たちが主張していた真理と事実を、もう一度注意深く見直し、考え直す理由はいくらでもあったのである。それでも、彼らの信念は変わらなかった。イエスが実際に死からよみがえったのでなければ、そしてそれを事実として彼らがはっきりと知っていなければ、これだけの確信と勇気を持って、イエスへの信仰を主張できたはずがない。」〔2〕
十字架刑の後、十二使徒は当局からの迫害を恐れて身を隠しました。一部で言われているように、番兵に金をつかませてイエスの墓から遺体を盗むような勇気は、彼らにはなかったのです。しかし、それから間もなく、イエスを裏切ったユダを除く十二使徒は、イエスが死からよみがえった神の御子であることを伝えながら、みんな殉教していきます。ローマ政府によるイエス逮捕の直後には、自分とイエスの関係を何度となく否定したペテロも、十字架の直後にはすでにエルサレムに入り、死の危険に晒されながら、イエスがよみがえった神の御子であることを説いています。熱烈な信仰を持っていたペテロは、処刑される時、「自分がキリストと同じ方法で死ぬのは畏れ多い」と言って、逆さ十字架にかかるほどでした。イエスのわき腹に手を入れた弟子のトマスは、槍によって刺し殺され、イエスの弟であるヤコブは、よみがえったイエスを見て回心した後、石打の刑で死んでいます。(第一コリント15:7)
嘘のために死ぬのは中々難しいことです。政治のために命を落とす人はいても、自分が信(・)じていない(・・・・・)ことのために死ぬ人はいません。萎縮し、怖気づいていた使徒たちを、信仰を大胆に語る雄弁な伝道者に変えた「何か」があったのです。使徒行伝では、イエスがよみがえった後、使徒たちの前に姿を現した様子が書かれています。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒1:3) 3.イエスは確かに十字架で死んだ
十字架の上で、「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。」(ヨハネ19:30-35)
「すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。『エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。』それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった。』と言った。」(マルコ15:36-39)
「すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。 」(マルコ15:42-45)
ローマ政府の百人隊長がイエスの死を確認し、その報告を受けたからこそ、ピラトはイエスの死体をアリマタヤのヨセフに与えることを許可したのです。 「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。」(マルコ15:46-47)
4. 岩
「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。女たちは、『墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。』とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。」(マルコ16:1、3、4) マタイの27:60にも「大きな石」という表現があります。この石はおよそ2トンあったと言われています。
5. 封印
巨大な岩は、墓泥棒を防ぐのに役に立ったでしょう。しかしそれ以上に重要なのは、岩に封印がされていたことです。パリサイ人はピラトの所に行き、イエスが三日後によみがえると話していたことを説明し、十字架刑から三日間はイエスの墓を護衛するよう要請しました。「ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」ピラトは『番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。』と彼らに言った。そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」(マタイ27:64-66)
A・T・ロバートソンの『新約聖書の言葉』は、岩の封印方法についてこのように説明しています。「ダニエル6:17(「一つの石が運ばれて来て、その穴の口に置かれた。王は王自身の印と貴人たちの印でそれを封印し、ダニエルについての処置が変えられないようにした。」)にあるように、岩に紐を渡して、それぞれの端を封印したと思われる。ローマ政府の権威と力の証であるこの印を守るため、封印作業にはローマ兵が立ち会った。イエスの遺体の盗難を防ぎ、復活を否定するために彼らはベストを尽くしたのだ。しかしその目論見は脆くも破られ、彼らはイエスの復活と空の墓の証人となったのである」〔3〕
6.遺体を包んでいた亜麻布
シモン・ペテロはイエスの墓に入り、イエスの頭を巻いていた布が、遺体を包んでいた亜麻布とは別に丸めてあるのを見ます。(ヨハネ20:3-9)ジョン・R・W・ストットは、「墓にたどり着いた時、使徒たちがそこで見た光景を想像するのはさほど難しくない。巨大な岩は壊れ、イエスの体を包んでいた布切れと頭を包んでいた布切れが、それぞれ丸められて床に転がっている・・・。彼らが『見て、信じた』のは尤もだ。イエスの遺体を包んでいた亜麻布が床に転がっていたことは、復活の現実性とその性質を物語るものである。それは、蝶に変わって飛び立った後の、さなぎのようであったに違いない」〔4〕
7. 隠ぺい工作
パリサイ人たちの報告に対する「番兵を出してやる」というピラトの発言は、パリサイ人お抱えの神殿番兵を使いなさいという意味だとも考えられます。しかし、この場合には、墓の護衛要請にわざわざピラトの所に行った意味がありません。このため、専門家の間では、ピラトがローマ兵の出動を認めたと認識されています。イエスがよみがえった時、「数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告」しました。(マタイ28:11)祭司長たちは、番兵たちに嘘をつくように指示します「・・・『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」(マタイ28:13-15)
ローマ軍の厳しい軍律を考えれば、眠っている間に遺体が盗まれたという彼らの職務怠慢に対するピラトからの処分(おそらく死刑)を恐れたに違いありません。「もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」という口ぶりから考えれば、彼らはピラトにも影響力があり、問題の番兵を処分しないよう説得することができたのでしょう。そして身の安全を保証した上に、さらに番兵に金をつかませて、嘘をつくように指示したのです。ここで再び、これが自分たちの管理下にあった神殿番兵であれば、賄賂を渡す必要はありません。賄賂のやり取りがあった事実こそ、イエスの体が盗まれたわけではないことの証拠です。
アルバート・ローパー教授は、この時に墓の護衛に当たった番兵の数を10人から30人とし、また墓の封印にはローマ帝国印が使われたとされています(この封印を違法に破った者は死刑)。〔5〕また、ウィリアム・スミス教授は、兵隊4人が一組になり、内1人が交代で歩哨に立つというローマ軍の基本慣習から、少なくとも4人の番兵がいたはずであるとしています。〔6〕
マタイは、この夜のことを以下のように描写しています。「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタイ28:2-4)
8. イエスの苦しみ
イエスは十字架の上で死なず、ただ気を失っただけであり、墓に入れられた後に息を吹き返して、その場を去っただけだという人もいます。
この主張が見落としている点は、十字架刑はもちろん、その前にイエスが経験した凄まじい拷問の事実です。ローマ政府に逮捕される前のイエスがパレスチナ中を旅している事実を考えれば、彼の健康状態は極めて良かったといえるでしょう。しかし木曜日の夜、ゲッセマネの園で祈っていたイエスは翌日に何が起きるか考えながら、大きな精神的苦悩に耐えていました。外科医であったルカは、この時の状況を「血の汗」をかいたと記録しています。これは毛細血管から出血した血が汗に混ざる血汗症と呼ばれる非常に稀な現象で、極度の精神的・感情的緊張に襲われた時に発生します。〔7〕
イエスが逮捕されると、祭司長や警吏、神殿の長老たちはイエスをあざ笑い、目隠しをした上で、鞭で打ちます。「彼らはみなで言った。『ではあなたは神の子ですか。』すると、イエスは彼らに『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。』と言われた。」(ルカ22:70)というやり取りの後、彼らはイエスをピラトの元に連れ出し、国民を扇動して皇帝への納税を禁じたこと、自分がキリストであり王であると言ったと告発します。しかしピラトはイエスに罪を認めず、また彼がガリラヤの出身であることを知って、ヘロデの元に送ります。かねてよりイエスの噂を聞き、イエスの奇跡を見たいと思っていたヘロデは喜んでイエスを受け入れて様々な質問をしますが、イエスは何も答えませんでした。ここでもイエスは笑いものにされ、立派な洋服を着せられてピラトの元に返されます。
「ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、こう言った。『あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。』しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。『この人を除け。バラバを釈放しろ。』」 (ルカ23:14-18)
ピラトは彼らの願いを聞き入れます。ローマ政府では、処刑の前に鞭打ちの刑が定められていました。処刑に使われる短い鞭は皮製で、体に傷を付けるため、小さな鉄の玉や先のとがった羊の骨片が編みこまれています。この鞭で背中、でん部、足が打たれます。鞭打ちは、失神あるいは死の一歩手前まで受刑者の体を弱らせる目的で行われました。鞭打ち刑による出血は、ショック状態を生み出し、この時の受刑者の状況により、実際の十字架刑の時間が推定されました。
ローマ兵はイエスにつばを吐きかけ、頭を殴り、いばらの冠をかぶせます。弱りきったイエスは定められたとおりに自分の十字架を背負って歩くことができず、ローマ兵はキレネ人のシモンに彼の十字架を背負わせます。十字架の重さはおよそ130キロ程度。受刑者が背負うのは十字架の横木だけですが、それだけでも30キロから55キロの重さがあります。
ローマの十字架刑では、受刑者の手首と足に釘を刺す方法が取られました。エルサレム近くにあるイエスと同時代の十字架刑受刑者の墓から、長さ12センチから17センチ、幅9センチくらいの釘も見つかっています。
十字架に吊り下げられた受刑者の全体重は肋骨筋にかかり、特に息を吐き出す時に、極度の負担がかかります。このため、息を吸った後に「足を使って体を持ち上げ、ひじを緩め、肩を内転させて息を吐き出さなければならない。しかしこの動作をすると、全体重が足根骨にかかり、極度の痛みを呼ぶ。また、ひじを緩めるためには、釘の刺さった手首を曲げる必要があり、ここでも大きな痛みを感じると共に、手首の正中神経が傷めつけられる。呼吸のために体を上下させるたびに、鞭で打たれた背中が、ささくれ立った十字架の縦木にこすり付けられ、激痛を呼ぶ。伸びきった腕は痙攣と知覚異常に襲われる。つまり、十字架上では呼吸そのものが非常な苦痛と疲労を伴うようにり、最後は呼吸のための体の上下が不可能になる。このように、十字架刑の最終的な死因は、疲れて呼吸ができなくなるための窒息死である」〔8〕
十字架刑は、鞭打ち刑の度合いにより、3~4時間で終わることもあれば、3~4日続くこともありました。十字架刑が長引きそうな場合、呼吸のための体の上下を難しくするため、ローマ兵が膝下の足骨を折るという処置がとられました。また、担当ローマ兵の1人が刀あるいは槍で、刃が心臓に達するまで体を刺すという習慣もありました。
ヨハネの福音書には「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネ19:30-34)とあります。
こうした事実を重ね合わせて考えれば、「イエスは気絶をしていただけで、後に墓の冷気で息を吹き返し、鞭打ちや十字架、槍による横腹の刺し傷といった極度の肉体的外傷をものともせずに元気を取り戻し、2トンの重さの石を動かして脱出し、40日間の伝道活動を行った」という主張は馬鹿馬鹿しいとしか言いようがありません。イエスの復活に関する膨大な史実は、彼の神格を認めるものです。またイエスを信じることにより、私たちも彼と同じように復活し、永遠の命を得られるという希望の源でもあります。 |