「あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。」
(箴言4:26)
天国、神の意志、死、天国への道。聖書が語る天国、死、新しい体とは? 生まれ変わるとは?天国とはどんな場所でしょう?死んだ後に新しい体が与えられるのでしょうか?天国への道、命、死、死後の生活とは?こうしたことを、聖書から学んでみましょう。 |
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天国への道
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神の声を聞く
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「主から言葉を頂いた」という人に会ったり、あるいはあなた自身が神からの預言を聞いたと思ったりした時には、そのことについてしっかりと祈る必要があります。預言者エレミヤは、バビロニアがエルサレムを包囲し、ユダ王国がまさに崩壊しようとしている時、アナトテの村を買うようにと、神から指示を受けました。(エレミヤ32章)その後、エレミヤのいとこが、彼にアナトテの土地の買戻しを依頼するに至り、彼が神の言葉を受け取った事実が状況的にも追認されたのです。しかし預言を頂いた時点では、、自分が受け取った神の預言に対して当惑していたことをエレミヤ自らが下記のように認めています。
「すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、それが主のことばであると知った。」(エレミヤ32:8)この発言から、いとこが来て神の言葉が実現するまでは、預言者エレミヤといえども、自分が受け取った預言の真実性に確信がなかったことが分かります。
土地の購入後、主がさらにエレミヤに預言します。「『まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。』と。」そしてエレミヤは、おじのネリヤの子バルクと証人の前で、主からの預言を告げます。
その後エレミヤは、神が天地を造ったこと、神の慈愛と優しさ、またエジプトでイスラエルの人々に見せたしるしと不思議、そして乳と蜜の流れる国を授けたことに感謝して祈ります。(エレミヤ32:17-22)また、イスラエルの人々が神の声に聞き従わず、その律法を守っていないために、神の災いが彼らに落ちたことを認めます。私たちは、このイスラエルの先例から、学ばなければなりません。イスラエルが神に反抗したため、エルサレムは包囲され、カルデア人とユダ王国との戦争が起きました。主が預言したように、彼らは戦と飢餓と疫病を経験する運命となりました。
土地を買い、神を賛美し、バビロニアに関する神の預言が成就しようとしたことを告げた後、エレミヤは「神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。』と仰せられます。」(エレミヤ32:25)と神に尋ねます。しかしこれは、彼の土地購入を取り巻く状況が非常に不自然に思えたため、彼は神にさらなる確信を送ってくれるように求めているののであり、エレミヤが神を試しているのではありません。神は彼の祈りに答えてこう言います。「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(エレミヤ32:37-38)
エレミヤ書を読むと、神に選ばれた偉大な預言者ですら、預言の真実性を確かめようと奮闘している姿が分かります。このように大変な配慮の元になされた聖書の預言と、カリスマ的な礼拝や聖書研究の中で語られる浅薄な言葉とを比べてみて下さい。後者の場合、その内容はいつも漠然としていて明確に解釈されることは決してありませんし、オカルト的な要素すら含まれている可能性があります。聖書時代、偽預言者は石打の刑にされました。現代、病気の人を治したと言いながら、客観的には毎回病気を治していない「ヒーラー」も、偽預言者と同じです。0.1割の打率では、話になりません。また、打率が100%だとしても、その癒しが神による癒しかどうかをしっかり見極める必要があります。サタンと呼ばれる悪魔も、病気を治したり、預言を語る力を持っているからです(病気を治したい一心で悪魔による癒しを受け入れた場合、後で大きな問題を引き起こすことになります)。
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神の霊を見極めるには |
ではどのようにしたら、神の霊と私たちを騙す悪霊を見分けることができるのでしょうか?私たちを騙す悪霊は、時に教会の中に潜んでいることもあります。
- 神、神の性質、神が人間を創造した目的、人間の堕落、贖い、救いの計画に関して、しっかりとした基本的知識を養いましょう。
こうした基本的知識を養うことで、偽者とその中にある間違いを徐々に見つけられるようになります。神の救いを受けていない、あるいはオカルト的なものにはまっている状態では、霊的現実に対する目が曇ってしまっているために、こうした知識と見識を養うことは難しいことかもしれません。イエスは、自分の羊は自分のことを神から送られた羊飼いであることを理解し、自分もまた羊一頭一頭の名前を覚え、彼らを導くと言っています(ヨハネ10章)。イエスのことをよく理解しなければ、偽者を見分けることはできません。神と、そして神の御子であるイエスと関係を築くには、まずイエスにあなたの人生の主また救い主となっていただくことをお願いする必要があります。まずは、下記のような祈りをあなた自身の言葉で捧げることから始めてみましょう。
「愛する神様。私はあなたから離れていましたが、私にはあなたが必要です。どうか私の人生に入って下さい。私はあなたの御子、イエス・キリストを私の救い主として受け入れます。イエス様が私の罪をゆるすために十字架で死んで下さったことに感謝します。私の人生の主導権を握り、あなたにふさわしい人間に私を変えて下さい。あなたの子供として、私に永遠の命を与えて下さい」
- 「実」によって、偽預言者を見破ることができます。(マタイ7:16)
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタイ7:16)
偽預言者の多くは、人格面において大きな問題を持っています。一日中声を嗄らして愛を叫んでおきながら、すぐに怒ったり、自分勝手な行動を取ったりします。弟子たちが貧しい生活に耐えてお腹をすかせているのに、自分は高級車を乗り回したり、あるいは宣教活動のための献金を募りながら、そのお金を流用したり豪邸を建てたりするのです。彼らの主張は正しいかもしれません。しかしその一方で、浮気をしたり、私服を肥やすために宣教活動を悪用したりと、不道徳な生活を送るのです。
”
こうした人たちの道徳観、あるいは彼らの実(言動)を考えて見ましょう。
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ7:15-20)
偽預言者は、聖職者やカルト宗教のリーダーに限られたことではありません。国家の指導者、政治家、産業界のリーダー、作家、芸能人などの中にも偽預言者はいます。
「『ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。』あなたが心の中で、『私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。』と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記18:20-22)
申命記の13章では、しるしや不思議な業が起きても、それが神を畏れないものから来たのであれば、その人物や「夢見る者」の預言を聞いてはならないと書いてあります。こうした予言は、あなたが神を心から愛しているのか、あるいは誘惑する悪霊の「予言の正確さ」に囚われているのかを見極める、神様からのテストかもしれません。
- 霊を確かめる。
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(第一ヨハネ4:1-4)
聖書では、霊媒や口寄せに助けを求めて自らを汚すことに対して、はっきりと警告しています。(レビ記19:31)
「あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。」(申命記18:10-14)
「あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記19:31)
「霊煤や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行なう者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。」(レビ20:6)
エンドルの魔女に相談に行った後、3人の息子と共に悲劇的な死を迎えたサウルやこうした聖句の警告を見れば分かるように、オカルトに対する神の裁きは厳しいものです。
欺きの霊であるサタンの霊は光の御使い(=神の御使い)の振りをして私たちの前に現れることがあります。最近では、カウンセラーや霊的な集まり、社会機構、深層心理解析、聖人信仰、宇宙人、ヒンズー教や仏教の神、インナーチャイルド、霊視といった様々な形で、悪霊や堕天使の存在が人々の生活の中に入りつつあります。「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(第二コリント11:14)
チャネリング、霊視、瞑想、ヨーガなどに「霊」の導きを求めている人は、そうした霊に向かってイエスが彼らの主であるかどうか、聞いてみて下さい。イエスの御名の権威の元に、彼らが誰に仕えているを聞いてみて下さい。ニュー・エイジ的発想は世間に広く普及しており、教会の中ですら、無意識の内にも悪魔の導きを求めている人がいることは事実です。こうした人々は、聖霊からの知識を受け取っていると信じながら、実際には悪魔とコミュニケーションを取っているのです。「しるしや不思議な業」を執拗に追い求めることのないように、注意しましょう。
誰かが自分の頭に手を置いて祈ってくれる場合、誰の権威によって祈られているかをしっかり見極めなければなりません。それは、あなたの良く知っている人ですか?神の救いを知っているクリスチャンですか?彼らの祈りは、キリストに導かれているのでしょうか、それとも悪魔に導かれているのでしょうか?あるいは単に人間的な知識に頼った祈りでしょうか?
イエス・キリストを認める霊は、聖霊の他にはありません。預言者であれ、グルであれ、政治家であれ、あるいは自らを救い主と呼ぶ人であれ、彼らの言葉の源がどんな霊なのかを、私たちはしっかり理解・テストする必要があります。
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生まれ変わるということ
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弟のラザロを亡くしたマルタに対し、イエスは「あなたの兄弟はよみがえる」と言いました。その後、二人のやり取りは以下のように続きます。
「マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』」 (ヨハネ11:24-27)
イエスは目に涙を浮かべながら、ラザロの墓に行きます。墓の入り口は大きな岩がおいてありましたが、イエスはその岩をどけるように言います。そして神に「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」(ヨハネ11:41-42) と祈り、「ラザロよ。出てきなさい」と叫びました。すると、手足を長い布で巻かれたままの姿で、ラザロが墓から出てきたではありませんか!もしイエスが「ラザロ」と指名しなかったら、その墓に収められた人全員がよみがえっていたことでしょう。マルタに言ったように、イエスは死んだ人をよみがえらせることができるからです。
ユダヤ人の指導者であるパリサイ人のニコデモの話はどうでしょう。ある晩、イエスのところに来たニコデモは、イエスが行うしるしは、彼が神から送られた証拠に他ならないと告げます。するとイエスは「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と答えます。(ヨハネ3:3、5-6)
神の大能の力により、イエスは死からよみがえりました。神を信じると、私たちの心に聖霊が住み、私たちの人生を変え、霊的な死から私たちを救い出してくれるのです。パウロは「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。」(第二コリント13:4)と言っています。イエスがよみがえり、今も生きているからこそ、私たちも同じように永遠の命を持つことを確信できるのです。律法に関して膨大な知識を持っていたパウロは、律法を元に以下のように説明しています。
「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」(第一コリント15:21-23)
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(第一コリント15:20) |
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新しい体
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物理的な体の死後に与えられる新しい体について、パウロは、植物を例に話しています。種はまず地に落ちて一度死ななければ、芽を出すことはできません。種から元気よく出てくる若芽は、地に落ちた種とは全く違うものです。小麦であろうが花であろうが、あなたが植えた乾いた小さな種から、全く新しい美しい植物が生まれます。同じように、神は人間に新しく美しい体を与えて下さるのです。人それぞれの種にあわせ、神の御心にあわせた美しい植物(体)が生まれるのです。新しい体は、古い種の体から芽吹きます。この世の体(種)は捨てられ、新しい霊的体がそこから生まれるのです。
「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。 すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(第一コリント15:36-50)
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。」(第二コリント5:1-5) |
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肉体の死と永遠の命
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「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(第一コリント15:22)とあるように、私たちを生かすことができるのは、イエスだけです。そしてイエスは彼の昇天についてこう説明しています。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネ16:7-9)
私たちが、救い主としてイエスを受け入れると、聖霊が私たちの心に住むようになります。(ヨハネ14:17)死人をよみがえらせるのは、聖霊の力です。 「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:10-11)
イエスを信じた人に約束されている新しい肉体とはどんなものでしょう?答えは、イエスの復活の中にあります。よみがえったイエスの体は、物理的限界を超え、閉じたドアをすり抜けることができました。(ヨハネ20:19)またイエスが現れても、みんなすぐにそれがイエスだと分かりませんでしたが(ルカ24:13-16、ヨハネ20:14-15、ヨハネ21:4&12、マルコ16:12)、パンをちぎる様子やその話し声で、それがイエスであることにやっと気づいたのです。
イエス・キリストを信じる人にとって、死は「至上の喜びと活気に溢れる永遠」への通過点に過ぎません。「私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。・・・そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」(第二コリント5)美しい珊瑚礁と海洋生物の海に飛び込むように、私たちも死を通してこの世の肉体を脱ぎ捨て、美しい、永遠の超人的な体に入り込むのです。命の源である神と共に永遠を過ごすことは、神の無償のプレゼントであるその御子、イエスの救いを信じた人に与えられる、素晴らしい報いです。。
しかし救い主イエスを知らない人々にとって、死は悲しみの時です。人間はみんな死ぬ運命にあります。アダムの犯した罪のために、肉体は滅び行く運命となりました。
一方、イエスを信じる人々にとって、滅び行く肉体への恐れは消え去りました。「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」(第二コリント13:4)またパウロは「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:10-11)と言い、イエスも「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」(ヨハネ11:25-26)と明言しています。 |
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クリップアート。天のイエス・キリストキリストの映像。 キリスト教の宗教デッサン。クリップアート。 素材(無料ウェブ用画像)
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