『わたしの行く道はあなたがたも知っています。』トマスはイエスに言った。『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。』イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。』」
(ヨハネ14:4-7) |
イエスは自ら、自分の神格を主張しています。今日、私たちが住む社会は、様々な霊的信念や宗教、思考体系で溢れかえっています。こうした暗黒の世界に住んでいる私たちにとって、真理を学ぶ最善の方法は、暗闇の中で灯りを照らすことではないでしょうか?キリスト教とイスラム教は、神の捉え方において一致していますが、「神と過ごす永遠の命」の見解については決定的な違いがあります(キリスト教では、イエス・キリストを神のひとり子と信じた時に、永遠の命が確実に得られると教えています)。 |
7~ キリスト教以外の宗教・思考体系について
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「イエスによる救い」という神の贖いの計画を理解することは、キリスト教以外の宗教や思考体系の正当性をチェックする指針になります。キリスト教とヒンズー教やイスラム教、その他の宗教とはどのように違うのでしょうか? |
「モーセ、パウロ、仏陀、モハメド、孔子など、世に広く認められている宗教リーダーの中で『自分は神だ』と言った人物は一人もいない。唯一の例外はイエス・キリストである。彼は自らの神性を宣言し、またその事実を世界の多くの人に納得させた歴史上唯一の宗教リーダーである」(トーマス・シュルツ) |
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イエス・キリストは偉大な
預言者に過ぎないのか?
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イエスを偉大かつ称賛に値する人道主義者、賢人としては認めるものの、彼の神格は否定する宗教や思考体系があります。この思考体系の問題は、イエスを受肉した神と認めないこと、つまりイエスを神とは異なる神格であり、自らを人間として人間の前に登場した神であることを信じない点にあります。
エルサレムの祭司長や神殿の管理人たちに捕らえられ、サンヘドリン(長老たちの会議)の前に連れ出された時、イエスはこう言います。 |
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「彼らはみなで言った。『ではあなたは神の子ですか。』すると、イエスは彼らに『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。』と言われた。すると彼らは『これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから。』と言った。」(ルカ22:70-71) |
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サンヘドリンは、イエスの発言を不敬罪とみなし、ローマ総督ピラトの元へ送って十字架刑を求刑します。ピラトはイエスを喚問し、「あなたはユダヤの王か」と聞きます。 |
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「イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』」 (ヨハネ18:36-37) |
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イエスの神格を一番強く主張しているのは、他ならぬイエス自身です。今日、私たちが住む社会には、様々な霊的信念や宗教、思考体系が溢れかえっています。こうした暗黒の世界に住んでいる私たちにとって、真理を学ぶ最善の方法とは、暗闇の中で灯りを照らすことではないでしょうか?旧約聖書・新約聖書は、この世の光と真理について、しっかりと証言しています。
「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」(ヨハネ9:5) 「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネ12:46)
イエスのような奇跡を行った「人間」は、誰一人としていません。イエスは盲目の人に視力を与え、死人をよみがえらせ(少女、ラザロス、やもめの一人息子など)、水をワインに変え、半身不随者の体を癒し、悪霊を祓い、ハンセン病患者や12年間長血を患っていた女性を癒し、5つのパンと2匹の魚から5,000人以上の人の食物を用意し、水の上を歩き、荒れ狂う風や波を鎮めました。これ以外にも、イエスは数えられないほどの奇跡を行っています。この世界に生きた人間で、イエスと同じことを言い、またイエスのように自然や悪霊、病気、死などを超えた奇跡を行った人は誰もいません。
死すらも、イエスの力を抑えることはできませんでした。預言者たちは、みんな墓の中に収まり、その体は腐敗しています。しかしイエスの体は墓の中にはありません。イエス自らが預言したように、イエスは十字架の死から3日目によみがえりました。イエスは罪のない存在ですから、肉体の死は彼を墓の中にとどめておくことはできないのです。十字架の上で9時間を過ごした後、イエスは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫び、その後世界全体が3時間闇に包まれました。イエスがこう叫んだ時、彼はあらゆる世代の人間の罪に包まれ、責められていたのです。イエスは生贄の子羊でした。イエスの人生の中で、彼が唯一神から引き離されたのが、この十字架です。神から人間を引き離す罪は非常に暗く、悪に溢れています。イエスのよみがえりは、彼の贖いが完璧であり、究極の生贄であることの何よりの証明です。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 (ヨハネ11:25-26)と言った預言者がいるでしょうか?こうした言葉は、「偉大な教師」やラビ、アブラハム、モーセといった人間の言葉でしょうか?それとも神ご自身の言葉でしょうか?人間の物理的死を越えて復活すると約束した「偉大な教師」に過ぎない人間がいたでしょうか?
イエスは「霊」としてよみがえったのではありません。よみがえったイエスは、肉体と共によみがえりました。11人の使徒(十二使徒の一人であったユダは、イエスを裏切った罪の重さから首を吊りました)が、体と共によみがえったイエスを見ています。イエスは彼らに言いました。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:39)それから、空腹を覚えたと言って、食事を求めています。イエスが最後に食事をしてから3日も経っていましたから、尤もでしょう。使徒たちが煮魚を出すと、イエスはみんなの前でそれを食べました(その後、イエスは300人の前で再び魚を食べています)。それからイエスは言いました。「『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』」(ルカ24:44) |
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成就した預言に関する証拠
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預言者の中で、自らの登場に関する預言を成就した人物は一人もいません。しかしイエスは、驚くような預言をいくつも成就しています。こうした預言が単なる偶然で成就することは不可能ですから、それが神の預言であると断言することができます。福音書の著者であるルカ、マルコ、ヨハネ、マタイや使徒行伝や書簡の著者であるパウロは、旧約聖書の預言を数多く引用しています。
神を信じない人々でも、旧約聖書の預言のいくつかを見るだけで、神の手が歴史を導いてきた事実を確信するに違いありません。
紀元前756年から697年の間に預言をしたミカは、イスラエルの支配者の登場が「永遠の昔から」定められていると預言しています。 |
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「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(ミカ5:2) |
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イエスはベツレヘムで生まれました。イエスの父ヨセフは、ユダの家系です。イエスがイスラエルの支配者として再臨する時に、ミカの預言のもうひとつが成就します。神であるイエスの日は、永遠に定められているのです。
紀元前700年頃に書かれたイザヤ書9章6節には、このように書いてあります。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
いまだかつて、「力ある神」「永遠の父」と呼ばれた子供がいたでしょうか?
イエスの十字架について書いてある詩篇22篇は、十字架刑の400年前に書かれたもので、ユダヤ人にもよく知られています。
「犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。」(詩篇22:16)十字架刑の死因は、息ができなくなる窒息死です。息が苦しくなってきた受刑者は、足と膝を使って体を持ち上げ、少しでも息をしようとします。このため、死刑執行係の兵士は、受刑者の足を折って体を持ち上げられないようにし、死刑の執行時間を短くします。イエスは安息日の前日に処刑されました。当時の法律では、安息日に十字架刑をしたり、刑が安息日までずれ込むことは禁止されていました。このため、処刑担当の兵士たちはイエスの足の骨を折ろうとしましたが、その時にはイエスはすでに死んでいたため、彼の骨はそのままでした。詩篇22:17はそのことをこう預言しています。「私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。」
紀元前758年から698年の間に預言をしたイザヤは、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:5-6)と預言しました。イザヤ53章は、救い主イエスの到来と、人間の罪の身代わりとして生贄に捧げられる彼の死を預言しています。神が時間の流れの外に位置し、自らの贖罪の計画の一部をイザヤに託したのでない限り、イザヤにこうした預言ができたはずがありません。
ゼカリヤは、バビロニアで生まれた預言者で、ゼブルンとヨシュアの時代にエルサレム再建のために帰国した帰エルサレム第一団に加わり、神殿の再建に携わりました。彼は第二神殿の建築に関り、「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ9:9)と預言し、神から頂いた預言に、非常に喜んでいます。
ゼカリヤの11章12節から13節ではこう預言しています。 |
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「私は彼らに言った。『あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。』すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。主は私に仰せられた。『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」 |
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イスカリオテのユダは、銀30枚と引き換えに、イエスを祭司に引き渡しました。イエスが罪に問われている姿を見て、ユダは良心の呵責を覚えて銀貨を返します。しかし司祭や長老に「お前は罪を犯し、罪のないイエスを裏切った」と言われ、銀貨を神殿(主の宮)に投げ入れます。司祭たちは、この金は裏切りの代価なので、神殿に戻されるのは正しくないという結論に達し、無縁者が葬られる陶器士の地所を買います。この経緯を、神は数百年も前ゼザカリヤに説き明かしているのです。
聖書には、まだ成就していない預言もたくさんあります。ダニエル書の預言ですでに成就したものはごくわずかですし、黙示録の預言は、まだひとつも成就していません。しかしこれまで成就した預言の多さを見れば、成就していない預言の信憑性も折り紙つきです。過去と未来をはっきりと見ることができるのは、時間の外に位置する神だけです。イエス・キリストの福音の真理を証言する真の預言を伝えられるのは、神の霊感を受けた者だけです。
前出の預言者ミカは、また次のような預言もしています。 |
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「彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。いまや、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。平和は次のようにして来る。アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。」(ミカ5:4-5) |
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この預言は、その一部だけが成就しているように見えます。イエスは神の力と威光によって、その羊を導きました。聖書には、悪魔に憑かれた「アッシリヤ」あるいは「獣」と呼ばれる反キリストが「終わりの日」に登場するとあります。アッシリアはイスラエルを支配しますが、超自然的な神の介入により、イスラエルは悪魔の手から救われます。
「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。 」(黙示録19:19-20) ミカの「いまや、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」という預言は、「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」という黙示録19:14-15とも呼応しています。こうした預言は、今後発生する神の介入について述べているものです。
ゼカリヤ12:8-10も、未来を預言しています。ここでは、多くの国がイスラエルを攻撃し、その結果、イスラエルの人々がイエスの存在を理解するようになります。 |
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「その日、主は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:8-10) |
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旧約・新約を通して預言の内容は一貫しており、知性を持った存在が歴史を導いていることを指しています。預言の成就こそ、聖書のメッセージが正確であり、人間が作り出した神話でないことの証明です。聖書の預言の多くがすでに成就している事実は、聖書の真実性と聖書が神によって書かれたことを証明する基本となっています。ただの人間であるイエスに、自分の誕生や使命、性格、死やよみがえりのすべてを演出できたはずがありません。
しかし神であったイエスには、それが可能でした。「偉大な教師」と呼ばれる人々の中で、数千年も前に複数の預言者によりその生誕の詳細が預言がされた人がいるでしょうか?その生誕地が、師としての性格が、使命が、その死に様が、旅行中の移動法が、そして彼が裏切られた賄賂の金額が預言された人がいるでしょうか?イザヤ書の52:13-15と53章を読んで、こうした預言の完全性をぜひ確認してください。そしてまた、死からよみがえり、友人の魚釣りを助け(ヨハネ21:6)、2回も友人と一緒に魚を食べた「偉大な教師」がいるかどうかも考えてみて下さい。 |
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イエスは、神の化身の一人に過ぎない
のではないか?輪廻転生は?
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「ヨーガや瞑想を行い、ヒンズー教やニューエイジ関連の書物を読むたびに、イエスが神の化身であるという信念が登場する」(拙書「ファラオの死」より)。化身とは、人間に教えを説くために、時間を越えて生まれ変わった力強い霊的存在と信じられています。クリシュナや仏陀、モーセ、イエス、モハメドや最近のグルやニュー・エイジの指導者は、みんな同等の神格を持つ神の化身と考えられています。
「化身」の概念は、すべての生物は死んだ後、さらに複雑な組織を持つ有機体に生まれ変わるというヒンズー教の輪廻転生の信念に関連しています。西洋諸国では、人間は人間に生まれ変わるという信念が一般的ですが、東洋の輪廻転生の概念では、魚、鳥、虫、動物はもちろん、人間も他の動物に生まれ変わる可能性があると信じられていますが、、植物やアスバラガスのようなマメ科の植物が萎れて死んだ後、ペットの猫に生まれ変わるといった考えはないようです。
輪廻転生と進化論は、次の段階に移動する時にはより「進化」しているという共通項を持っているため、うまく共存しているようです。しかし輪廻転生の進化では、「悪いカルマ」を持っていないことが前提とされます。カルマとは、私たちをより進化した生物に輪廻転生させる性質を持つもので、カルマの是非により、来世でのあなたの地位が上下します。
あなたが悪いことをした場合には、悪いカルマを積むことになります。そして生まれ変わった次の人生で善行を積み、良いカルマと悪いカルマのバランスを取らねばなりません。善行が悪行を上回れば、人も鳥も魚も動物も、みんなより高度な生命体として生まれ変わることができます。つまり、良いカルマを積んだヒキガエルはカナリヤに生まれ変わり、、良いカルマを積んだえびはコオロギに、鰯はスズキに、バッタはカブト虫に、ローマ人のラバ売買人はミニバンの営業に進化できるといった具合です。
この輪廻転生の流れを超越したのが、神の化身です。神の化身は、苦悩とともに輪廻転生の輪を回っている生物が、その流れを超越できるように手助けをしたいと思っています。彼らは時間や空間を超え、化身として、また預言者として何度も生まれ変わります。そして各時代の人々に崇拝され、その地域に大きな影響をもたらします。
しかし、古今東西の「化身」が説くのは、輪廻転生、化身への従順、瞑想、ヨーガ、日夜の詠唱や読経、果てはウルグアイの山に登ってUFOと交信するといった教えであり、イエスの血による神の贖いの計画ではありません。
歴史学的には、イエスは神の御子とは認められていません。アダムとイブの堕落、罪、神からの別離、十字架での生贄による救いといったアイディアは、人間にとって全く新しい概念です。一般的に、イエスは他の「化身」者と同じように「悟りを開いた」化身のひとりに過ぎないと考えられています。ヒンズー教の僧院では、数々の化身の絵(その多くはかなり気味悪い様子です)と並んで、イエスの絵が飾られています。
こうした一般的な「イエス像」に共通しているのは、イエスはエッセネ(死海付近に存在した神秘的・禁欲的宗教一派)でトレーニングを積んだ神秘主義者である、あるいは「失われた時代」をインドで過ごしたという見解です。しかし、こうした見解は事実に基づくものではなく、推測に過ぎません。クリシュナのように、その実在さえ疑問視される神の化身とイエスを同等に扱うことにより、西洋の献身的信者に、クリシュナへの親近感を起こさせることが彼らの狙いのひとつです。線香やシターの音楽、僧院に祀られているグルの写真に混ざって飾られている物憂い様子のイエスの写真が、西洋人に漠然とした安心感をもたらします。しかし、東洋諸国で描かれているイエスは、聖書に出てくるイエスとは別人です。物憂い様子のイエス像とは対照的に、力仕事が中心の大工であったイエスは、おそらく強く無骨な感じであったでしょう。そして彼の伝道も、力強くダイナミックなものでした。
イエスは、輪廻転生を教えていません。聖書では、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブル9:27)と輪廻転生をはっきり否定しています。またラマになる可能性や、逆に心身を鍛えれば、人間が神や宇宙意識になれるということも教えていません。イエスの教えは極めて簡単です。「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)
しかし、ニュー・エイジや東洋神秘主義、キリスト教的カルトの信者は、イエスの言う「私」を彼自身としてではなく、一般的概念としての「私」として理解しようとしています。ニュー・エイジでは、イエスの言う「私」を「私たち全員の中に存在する一般的な自己」と説明しています。神の救いの計画を理解しない限り、私たちはこうした言葉遊びに簡単に翻弄されてしまうでしょう。結局のところ、悪魔も「あなたがたがそれを食べるその時、・・・あなたがたが神のようになり」(創世記3:5)と言って、エデンの園でイブを騙したのですから。 |
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私たちはみんな、プチ神様?
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21世紀を迎え、自らを神と信じる老若男女は増える一方です。彼らは、自分たちの利益を一番に考え、真の神の存在を疑っています。罪深い性質と堕落した社会の中で、真の神が自分には合わない、あるいは無意味であると考え、人間は自らを神とするのです。こうした環境下では、政治、ビジネス、性、人間関係、国際関係における倫理や、神の創造物への敬意などは皆無です。
アメリカだけでも、毎年およそ200万件の中絶手術が行われています。旧ソビエトの各国では、大規模な環境汚染が広がっています。ロサンゼルスやリオ・デ・ジャネイロ、モスクワといった地域では、地元住民がギャング集団による暴力に怯えています。また富裕層に属する悪人たちは、優雅なオフィスから株や商品の相場を操作して私腹を肥やしています。人間の法則は、無法状態や無政府状態を生み出します。神の掟がそれを止めたとしても、再び間違いだらけの人間による新たな形の独裁や抑圧が舞い戻ってきます。しかし神は、人間の悪行を永遠に黙って見ているわけではありません。ノアの時代には、大洪水があり、ソドムとゴモラの町は、硫黄と火で焼き尽くされました。神を忘れ、外国の神々に全焼の生贄を捧げたユダの町に対し、神は預言者のエレミヤを通して彼らを滅ぼすと警告を出しました。「バアルのために自分の子どもたちを全焼のいけにえとして火で焼くため、バアルの高き所を築いたからである。このような事は、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ。 」(エレミヤ19:5)
今日、アメリカ中で毎日5,000人もの胎児が殺されています。中絶は、一大産業となり、政府や法廷からの助成金を受けるまでになっています。ユダの人々が生贄として自分たちの子供を捧げたように、中絶は、情欲の神に子供たちを捧げていることに他なりません。
エルサレムを破壊したバビロンは、ユダの人々を捕虜にして移住させました。その後、バビロニアの王ベルシャザルは、エルサレムの寺院から盗んだ銀の聖なる器を持ち出し、招待客や内妻と共にその器を使って酒を飲み、汚します。すると突然、人の手が現れて壁に字を書き始め、ダニエルがそのメッセージを解読します。「『意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。』これを聞いたベルシャザルは、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖をその首にかけるように命じ、王国を治める者のうち第三の位を彼に与えるという布告を出した。」(ダニエル5:26-29)同夜、難攻不落と謳われていたバビロンは、水路を通じて侵攻を受け、死を免れない人間でしかない「神」ベルシャザルは、殺されたのです。 |
オジマンディアス
「古代からの旅人が言う。
『胴のない、巨大な石の足。
半ば砂に埋もれ、半ば朽ち果てたる面貌。
彫刻家が描き出した、冷徹かつ高慢な表情。
其の台座に銘ありて曰く、
『我が名はオジマンディアス。
諸王の中の王、全能なる神よ。
己をこそ思い知れ!そして絶望せよ!』
果てしもなくむなしく、
どこまでも広がる砂漠の海』」
パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)
ラムゼス2世によせて
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キリスト教とイスラム教
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- 両宗教とも神の存在を認識し、受け入れる。
- 両宗教とも体のよみがえり、死後の生活を信じる。正しい人は天国に、悪者は地獄に行く。
- 両宗教とも神だけが知る一大異変の「裁きの日」が突然訪れる事実を認めている。
- 両宗教とも神の恵みによってのみ、ゆるしが得られることを信念としているが、キリスト教では、救い主を心から信じることによる救いを強調する。
- イスラム教では、ゆるしを得るには、たゆまない人間の自己抑制が必要とされ、神に仕えることは、善行(特に祈りと慈善)を意味する。「それで秤が(善行のため)重い者たちは、至上の幸福をえる。また秤が軽い者たちは、魂を失い、地獄に永遠に住む。」(スラ23:102-103)一方聖書は神の恵みを強調する。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エペソ2:8-9)「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」(テトス3:5)
- キリスト教は、イスラム教が伝える「情け深く、慈悲深く、寛大で、人間を守り、許し、必要なものを提供し、罪を告白した罪人を受け入れる準備ができている」という神像に同意するが、神との永遠の命は、イエス・キリストを受け入れることでのみ確実に与えられる信じる。
- キリスト教では、すべての人間の正義は、神の前では雑巾に等しい。「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。」(イザヤ64:6)アダムとイブが犯した現在により、どんな善人も罪の状況にあり、神から離れている。「罪からくる報酬は死」(ローマ6:23)であり、神の前にはどんな人間も十分ではない。神の前に罪のない姿で立てるのは、この世界の罪のために命を落とした子羊イエスだけであり、救いは、神の御子、十字架で死んだイエスを通して与えられる神からの無償の贈り物である。「神は実にそのひとり子をおあたえになるほど、この世を愛された。それは神を信じるものが一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」(ヨハネ3:16)
- 両宗教とも、自然の中に神の力とその実在を認める。神は、この世界の創造主として崇められる。
- 両宗教とも、預言者に相談したりアドバイスを求める。コランの中で、モハメドはエジプトやロト、ノアを突然襲った大災害のことだけではなく、ヨセフやバプテスマのヨハネ、ダビデ、ソロモン、イエスについても触れている。
- 両宗教とも、神への祈りを必須とする。メッカ・スラでは、朝晩の祈りと、夜に捧げる個人的な祈りについてしか触れていないが、イエスは「主の祈り」を通して、どのように祈るべきかを教えている。
- 両宗教とも、慈善を勧める。マラキは、什一献金について語り、新約聖書では、喜びを持って捧げることが語られている。またイエスは、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。」と言って、旧約聖書の献金の習慣を追認している。
- コーラン4章136節は「あなたがた信仰する者よ,アッラーとかれの使徒を信じなさい。また使徒に下された啓典と,以前に下された啓典を信じなさい。凡そアッラーを信じないで,天使たちと諸啓典とかれの使徒たち,そして終末の日を信しない者は,確かに遠く迷い去った者である。」と説明。イスラムの神は、「唯一の神」を意味するアル=イラーフの短縮形でアラーと呼ばれる。神に関する「最も美しい名前」として「聞く者」「予言者」「恵みを与える者」「許す者」「看守」「指導者」など99種類の名前がある。イスラムの神の性質を現す有名な「王位の聖句」(スラ2:255)は、キリスト教も同意する内容である。「アッラー,かれの外に神はなく,永生に自存される御方。仮眠も熟睡も,かれをとらえることは出来ない。天にあり地にある凡てのものは,かれの有である。かれの許しなくして,誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。かれは(人びとの),以前のことも以後のことをも知っておられる。かれの御意に適ったことの外,かれらはかれの御知識に就いて,何も会得するところはないのである。かれの玉座は,凡ての天と地を覆って広がり,この2つを守って,疲れも覚えられない。かれは至高にして至大であられる。」
- 両宗教とも天使の存在を信じている。コラーンの天使は、神のメッセンジャーとして登場。聖書に登場するミカエルとガブリエルは、コーランにも見られる。コラン81:19-21にあるように、ガブリエルは、「本当にこれは、高貴な使徒のアッラーからの言葉。かれは玉座の主の御前で座につく、力のある、従われ,信頼される(使徒である)。」として認識され、モハメドにコランを伝える人物として描かれている。また聖霊により、処女マリアにイエスの誕生を告げ、イエスを強めたと三度書かれている。
- 両宗教とも悪魔の存在を信じているが、イスラム教では堕天使というよりも、反抗的な精霊として捉えられている。精霊は、人間と同じように創造されたものであるが、土からではなく火から造られた。信じる精霊と信じない精霊がおり、信じない精霊たちは、人間と一緒に裁かれ地獄に送られる。反抗的な精霊(シャイタン)は、人間に魔法を教えたり預言者に逆らうことを教える。彼らは天国での会話を盗み聞きしようとするが、流れ星に追いやられる。シャイタンあるいはイブリース(大悪魔)は、アダムを礼拝せよという神の命令に逆らったことにより、天使の地位から追いやられた。このためにシャイタンは呪われたが、よみがえりの日までその呪いは休止され、人間を誘惑する機会を与えられている。
キリスト教同様、イスラム教では、「またアッラーと一緒に,外のどんな神にも祈ってはならない。かれの外には,神はないのである。かれの御顔の外凡てのものは消滅する。裁決はかれに属し,あなたがたは(凡て)かれの御許に帰されるのである。」(コラーン28:88)として、神は永遠から永遠への存在と理解されています。しかし神の性質に関して、イスラム教とキリスト教では意見が分かれており、キリスト教が三位一体の神を信じているのに対し、イスラム教はこの考えを否定しています。「本当にアッラーは,(何ものをも)かれに配することを赦されない。それ以外のことに就いては,御心に適う者を赦される。アッラーに(何ものかを)配する者は,まさに大罪を犯す者である。」(コラーン4:48-49)
コラーンでは、モハメドを神の警告と救いのメッセージを伝えるように選ばれた人間として描いています。彼には自分に示された以外の事実を知る超人的な知識はなく、奇跡的な力も与えられていません。
メッカ版のコーランにも、メディナ版のコーランにもイエスの話が登場しますが、イエスの神格やイエスの誕生そして彼が行った奇跡については否定しています。イエスは神でも、神の御子でもないというのが、彼らの主張です。また、イエスが奇跡によって母の胎に宿ったことは認めていますが、聖書が語る処女受胎は否定しています。アダムが土から造られたように、イエスも神によりマリアの胎に造られたという見解です。
聖書に「御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」(ルカ1:35)とある一方で、コーランは、「マルヤムの子マスィーフ・イーサーは,只アッラーの使徒である。」(コラーン4:171)と言っています。
イスラム教では、イエスの十字架での死は、単なるユダヤの寓話として捉えられており、彼に良く似た人物が代わりに十字架で死んだと信じられています。イスラム教のインジール(福音、伝道の意)は神の啓示として受け入れられ、モーセのトラやダビデの詩篇、コーランなどと同等に考えられています。
福音書に書かれているように、イエスは自分の神格を一番明確に伝えた人物です。「イエスは彼らに言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」」(ヨハネ8:58)イエスがこう言った後、ユダヤ人は彼が自らを不滅の存在と言っていることを理解し、「そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」という事件が起きました。
ヨハネ1章には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」とあります。ヨハネ1:14は「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」と続きます。イエスは人となり、私たちの内に住まわれた言葉なのです。
ヨハネ10:24-30は、さらにイエスの神格について話しています。「ユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、『いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい。』イエスは彼らに答えられた、『わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである。』
するとイエスは彼らに答えられた、『わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか。』ユダヤ人たちは答えた、『あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである』。」
「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)
「それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。」
(ヨハネ5:23)
黙示録11:15には、「第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、『この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう』」とあり、主とキリストが同等に扱われています。
キリスト教の三位一体の第三神格は聖霊です。「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。(ヨハネ4:24)「そこで、ペテロが言った、『アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。』」(使徒行伝5:3-4)
キリスト教は、イエスの復活も重要視していますが、コーランは「彼らは十字架にかけたのでも、殺したのでもなく、そのように見えただけに過ぎない」と言ってイエスの復活を受け入れていません。イエスはアダムの原罪に汚されていない罪のない存在であり、死の呪いを免れることができました。罪のない存在は神だけであり、イエスだけが神と同一の罪のない存在でした。このため、死はイエスを墓にとどめておくことはできなかったのです。復活の証拠は、本ウェブサイトの「キリストの神格に関する有力証拠」内の「最高のしるし-イエスの復活」に詳しく書かれています。
新約聖書は、「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」(ルカ23:33)「そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』。こう言ってついに息を引きとられた。」と言って、イエスの死を明確に記述しています。
モハメドの証言は、キリスト教で同様の事件が起きた600年後にかかれていますが、福音書は、目撃者あるいは目撃者からそれを直接聞いた人々の手によって書かれており、現存する証拠は、すべてマタイ、マルコ、ルカの福音書が事件発生から30年以内に書かれていた事実を示しています。この期間では、彼らの記述に反意を唱えるような人々も生きていたはずであり、そこに嘘があれば、こうした人から猛烈な反対にあったことでしょう。
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