魔術や魔女、オカルトに関して、聖書は何と言っているでしょう?瞑想やハタ・ヨーガなどのニュー・エイジの習慣は、キリスト教やキリスト教的ヨーガとどのような関係にあるのでしょう?

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タケのデッサン; 主題のための装飾:イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。
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神秘体験やニュー・エイジ神秘主義、サタン、悪、悪魔、魔術、妖術、魔女、オカルトに関して、聖書は何と言っているでしょう?瞑想やハタ・ヨーガなどのニュー・エイジの習慣は、キリスト教やキリスト教的ヨーガとどのような関係にあるのでしょう?

弾丸クリップアート;主題のための装飾:イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。 3 神の救いの計画を捻じ曲げるもの 弾丸クリップアート;主題のための装飾:イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。

動きの蝶クリップアート;主題のための装飾:イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。分割ライン クリップアート;主題のための装飾: イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。。動きの蝶クリップアート;主題のための装飾:イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾:神秘体験 神秘体験 動きの蝶クリップアート;主題のための装飾:神秘体験 /イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。

創造主である神は、イエスという人間の姿を取り、物理的に分かる形で私たちの前に登場してその性質を見せて下さいました。「受肉した神であるイエスを信じること」という、シンプルな救いの計画を、神の私たちに明確に伝えています。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

神の救いに関しては、「アリ塚に向かってきているブルドーザー」のたとえがよく使われます。アリ塚のアリにその危険を知らせたいと思った場合、出来ることならあなた自身がアリになって、アリの言葉で危険を知らせるのが一番でしょう。同じように、神は迫り来る永遠の危険から人間を救うため、自らが人間となって救いの計画を知らせたのです。

「人間として生まれたイエスを神と信じること」を強調する神の救いの計画は、私たち人間には理解できないことかもしれません。しかし、これこそが創造主である神の計画であり、私たちを永遠の命に導く唯一の計画であり、人間のために神がオーダーメイドしてくれた計画です。

しかし、神が作り上げたこの計画が全人類に受け入れられるわけではありません。かえって人間は、自らの手で救いの計画を作り出すことを好みます。こうした救いの計画はあくまで人間が思いついた計画であり、神の計画とは異なります。C・S・ ルイスは「あなたたちは、死につながる自己中心的な恐れ、希望、強欲、ねたみ、自己欺瞞の塊である」(『キリスト教の精髄』より)と言っています。またテモテは、終わりの日に「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(第二テモテ3:2-5) と警告しています。キリスト教では、「自己」は堕落であり、贖いの必要があるものと教えます。

神秘体験は、この「自己」から発生しています。無神論者として有名なフリードリッヒ・ニーチェは、『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で「あなたは自分を十分に愛していない」と言っています。ニーチェの「超人思想」のコンセプトは自己中心的世界観から生まれました。神の高尚な公理と絶対倫理を無視した無情を貫き、またナチス・ドイツに影響を与えて自分が好まない人種だからという理由だけで何百万という人間を殺したのは、この超人思想に他なりません。

ニュー・エイジの中心的教えは、「あらゆる意識の体験」です。ヒンズー教と禅仏教の影響を受けたニュー・エイジでは、「人間はみんな神であり、私たちはその事実を忘れてしまっている。瞑想やヨーガを通して私たちの中に内在する自分自身に到達することにより、自らの神性に触れ、それを引き出すことができる」と教えます。神と創造物には区別がなく、「自己」を中心において自己意識を引き出すことで、自分に内在する神に到達することができると説き、こうした主観的な経験を神と捉えています。

一方キリスト教では、無限の知性と愛を持つ、親しみやすい創造主の存在を認めています。創造主と創造物とは区別され、創造主は創造物の外に存在するものと教えています。神とつながること、神との関係を築くことは経験ではなく、客観的事実です。イエスを神のひとり子として信じ受け入れることにより、聖霊として私たちの心に住み、永遠の命を与える創造主である神と、契約に基づいた関係に入ることができます(ヨハネ15:26、16:7)。キリスト教における私たちと神との関係は、雰囲気や感情に左右されるものではなく、あくまでも客観的事実です。

『懐疑主義者のためのキリスト教』(スティーブ・クマール著)にはこのように書いてあります。

「『経験できるものだけが現実であるという』前提の裏にあるのは、経験が現実を証明するという考えである。しかし、主観的経験は私たちが信じるものを本当に証明することができるだろうか?自分の経験を振り返る時には、哲学者バートランド・ラッセルの『私たちは、ほとんど食事をせずに天国をみる人間と、大酒を呑んで蛇を見る人間との違いを区別することはできない』という言葉を思い出す必要があるかもしれない。経験に基づく形而上学的信念の証明を求める人々にとって、形而上学と経験は同義である。経験とは人間が持つものであり、形而上学はその経験の解釈であるが、彼らにはそれが理解できない。同時に、『経験は色々な形で解釈される』という事実も、しっかりと理解する必要がある。

『永遠の希望』を打ち立てる基礎には、人間の主観的経験はあまりにも心もとないことは、誰でも知っている。だからこそ、経験を基礎に物事を考察する場合、人は自分の経験を改めて見直すことはなく、よって主観主義は、真実の基本になることはできないのだ。

カール・ジャングのコメントにも留意したい。『その人が本当に悟りを開いたのか、それともそう思い込んでいるだけなのかを見分ける方法はない。こうした事柄に対し、私たちにはそれを見分ける基準はないのである』(鈴木大拙著『禅仏教入門)』より」となれば、自分が経験しているのが神なのか悪魔なのか、聖霊なのか悪魔なのか、我々はどうやって見分けることができるのだろうか?」〔1〕

スティーブ・クマールは、神秘体験の危険を軽く考えてはいけないと警告し、神秘体験に伴う闇の力を理解した元ヨーガ教師兼グルのコメントを引用しています。

「オカルトの教えを猛烈なスピードで消化して行った私は、すぐに最も位の高い、最も力のある、そして西半球では最年少のグルとなり、週に2日はテレビ番組でヨーガを教えた。ハタ・ヨーガは、ごく簡単なエクササイズにしか見えないため、多くの人は単なる体操と思っているが、これは悪魔的罠の第一歩であると警告したい。ハタ・ヨーガのインストラクターになった後、私のグルが『こうしたエクササイズが開く道は、オカルトへの興味だけである』と言ったことがある。それはマリワナのような中毒性を持ち、人をがんじがらめにする。この状況から人間を救い出せるのはキリストだけだ。オカルトを単なる精神力の問題と考えている人が多いが、これは大きな誤りだ。人間の意志力が終わりを告げ、悪魔の力が人間の意志を支配し始める時は、本当に存在するのだ」〔1〕

本ウェブサイトの著者は、6年間、毎日欠かさずヨーガと瞑想を行ってきました。ヨーガと瞑想を通して最初に得た力は大きく、自分の探していた答えはここにある!と確信したからです。人間は神になることができる、自らを引き上げることができる、そして私たちは実際に神であり、それに気づいていないだけだと思っていました。しかし、瞑想とヨーガには、本当に中毒性があったのです。1年間後に瞑想とヨーガをやめようと思いましたが、不可能でした。やめようとすると震えや冷や汗、緊張感などの禁断症状が出始めました。瞑想なしには生活できなくなり、さらに東洋神秘主義の道に進むことにしました。ヨーガや瞑想の集中講座などを受講して過ごした6年間が終わった時には、私は完全に打ちのめされ、私の心は冷たい、暗い、不毛の土地をさまよっていました。環境を変えれば調和と祝福が得られるという約束も、実現しませんでした。真の愛、平和、命をもたらしたのは、キリストを自分の個人的救い主として受け入れることだけでした。ヨーガや瞑想、環境の向上などが、私に命の喜びをもたらすことはなく、逆に私の首を絞めあげました。こうした事実は聖書でも警告されています。「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです」(第二コリント11:14)

本セクションの最後に、クマールが引用しているプリンストン大学の神学者B・B・ウォーフィールドの言葉を紹介しましょう。

「自らの中に神を求めることから始める人間は、自分と神との関係を混乱させるだけである」

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾:キリスト教の教えにニュー・エイジ神秘主義? キリスト教の教えに
ニュー・エイジ神秘主義?

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ドングリ クリップアート;主題のための装飾:魔女、魔術、オカルト.

イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わることがありません。 ですから、いろいろの珍しい教えに心を奪われてはなりません。

(ヘブル11:3)

ドングリ クリップアート;主題のための装飾:魔女、魔術、オカルト.

ニュー・エイジ神秘主義を信奉する人々から、ニュー・エイジ的な霊的経験がキリスト教会にも行き渡っているではないか、という批判が聞かれます。神の言葉である聖書よりも個人による黙示や預言が重要視され、礼拝の中心は神から罪深い人間へと移動し、キリスト教に弱体化、汚染、妥協が生まれている・・・。神を礼拝する代わりに、幸福や成功の秘訣、正しい仕事や結婚相手を見つける方法を見出すことに、人々は時間を費やしている・・・。聖書の引用はあるが、話の中心は神ではなく人間である・・・。神はサラダのドレッシングやら香辛料のような「おまけ」に過ぎない・・・。神は個人の自己実現の道具に過ぎない。平日の聖書研究は神の言葉を学ぶことではなく、曖昧な「教化と預言の言葉」を聞くだけに終わっている・・・。神の威厳は、キリスト教的なシャーマニズムの実践に取って代わられている・・・。

実際、無意識とは言え、礼拝の対象が、礼拝に値する唯一の存在である神から離れ、主観的な霊的体験に移行していくことはありますし、これには注意が必要です。今日、霊的なものに対する社会的興味が高まる中、毎週のように「聖霊により与えられた」と証する数千もの予言が行われています。しかし、その中で正確な預言は、また聖霊によって与えられた預言はどれだけあるのでしょうか?病気が癒されることを祈った人々の中で、神の力によって癒された人は何人いるのでしょうか?

神は箱の中に収まるような存在ではありません。神には限界はありません。時間の外に存在する神が、「人間として生まれ、自らを人間に示そう」と思ったなら、その通りになるのです。聖書にあるように、神は人間に正しい預言を与えたり、病人を癒すことができるのはもちろん、それ以上のことができる存在です。

「・・・御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:13)

「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。 」(ヨハネ14:11-12)

神のわざにはもちろん病人の癒しも含まれています。実際、イエスの伝道活動のおよそ1/3は、病人を癒すことに費やされています。

使徒パウロは、様々な聖霊の賜物について詳しく説明しています。「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」(第一コリント12:8-11)

神は聖霊を通して、教会に不思議なわざを成されます。しかし、悪魔の欺きも同時に存在しています。そうでなければ、教会に「霊を見分ける力」の賜物が必要なはずがありません。

どうすれば、教会の中で働く「欺きの霊」の働きを見破ることができるでしょうか?イエスはこう教えています。「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカ6:43-45)

「自分には預言の賜物がある」という人がいる場合、その人の人生を見ることで、彼(あるいは彼女)が本物かどうか分かります。浮気をしていたり、議論を吹っかけたり、人の気持ちや状況を操作したり、他人に対する愛や思いやりがなかったり、強欲だったり、慈悲の心に欠けていたり、冷酷だったり、家族の中で問題があったり、場所によって態度が違ったり・・・。こういう人が「預言者」と言っても、その信用度はかなり怪しいものです。この人物の預言がいかに崇高で威厳があったとしても、清い生活を送っていない彼らの働きは砂上の楼閣であり、そのメッセージには問題があります。

偽預言者たちの預言の内容には間違いがあり不正確です。これも、彼らの真の姿を見破る方法になります。旧約聖書の時代、偽預言者たちは石打の刑に処せられました。今日であれば、政治家、「ヒーラー」と呼ばれる人々、聖書預言に関する憶測本を書く人々などが石打の刑にあうことになるでしょう。

イエスは、お互いに愛しあうこと、また間違いを犯した人々にそれを伝えた上で、ゆるすことを教えています。ある人に対して「教会を去ってほしい」という話し合いが持たれるのは、その人物が容認できない行動を取り続けた場合のみです。

C・S・ルイスは、この教えに従い、神の言葉である聖書は、感情と関係なく実際的なものであると指摘しています。

「英国空軍で神学について話をしていた時に、百戦錬磨であろう年老いた将校が立ち上がってこう言った。『そうしたことは自分には何の意味もない。しかし、私も宗教的な男です。神がいるのは知っている。非常に不思議なことだが、一人で過ごした砂漠の夜に、私は神を感じたのだ。だからこそ、私は神に関する貴殿のちっぽけな教義やら教えやらを信じない。本物を経験した人物には、そうしたものはみんな、つまらない机上の論理で、非現実的に見えるのだ』」(『キリスト教の精髄』)

ルイスはさらに、「砂漠で神を真に経験した」と主張する人間は、キリスト教信条の現実から目をそむける傾向にあるが、キリスト教神学は地図のようなものであると言います。この地図は、本当(・・)に(・)神に触れた数え切れない人々の経験に基づいて書かれたものです。人間のスリルや宗教的な感情は、こうした経験と比べたら非常に稚拙であり、混乱に満ちていると語っています。

「もしその先に進みたいのであれば、この地図を使わねばならない。この将校の砂漠での経験は本物かもしれないし、それはエキサイティングなことだ。しかしそこからは何も生まれない。それは彼をどこにも導きはしない。それはそこで止まってしまう。しかし、神を『感じる』ことを第一とする曖昧な宗教が人々の心を惹きつける理由は、まさにここにあるのだ。すべてはスリルであり、そこに何の作業も必要ない。まるで海岸に寝転んで、海を見ているようなものだ。しかし、そんな風に大西洋を経験したところで、新天地には辿りつけない。そして、花や音楽の中に神の存在を感じるだけでは、永遠の命を得ることはできない。地図を見るだけで沖に漕ぎ出さなければ、永遠の命を得ることはできないし、同時に、地図なしで海に出かけるのも、危険である」
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神学は現実的で実用的です。聖書は、イエスが素晴らしい道徳的教師だった事実を伝えていますが、同時に彼が神の御子であり、人間として生まれた神であることも明確に認めています。イエスを見れば、神の愛が分かります。イエスを信じることで、永遠の命が得られます。積極的思考や瞑想、ヨーガ、グルによる癒し、カリスマ的な笑いや大声を出すことでは、永遠の命を得ることはできません。罪の束縛や霊的な欺きからの贖い、救い、自由は、神学が導く細くて険しい道の先にあるのです。クリスチャン神学の目標をシンプルにまとめれば、イエス・キリストを神のひとり子と信じるという一語に尽きます。

自著『ソロモンの信条を実践する』を参考に、この件についてもう少し考えて見ましょう。

「信じることには、非常な力があり、それはあなたの永遠の成功を決定づけるものだ。信念は私たちに力を与え、不安や死の恐怖を取り除く。人の子(=神)を信じるという時、それは神を『信じ続けること』と言う方がより正確であろう。信仰により、あなたは神に拠り頼み、自らの指針と成長を神に委ねるのだ。」

「ここで再び、目に見えないより高い、力強い存在をどうすれば信じられるかという問題が浮上する。しかし、信じる・信じないを別に、敢えてこの存在に拠り頼み、あなたの人生や状況に介入してくれるよう頼んでみると、前向きな変化が起きる。その存在に拠り頼むだけなのだから、あなたが失うものは何もない。しかしこの作業を無視した場合、創造主である愛の神との関係を築くチャンスが失われ、あなたはすべてを失う。あなたの成功は大きく制限される。それは、経済的な成功だけではなく『この地球上で意味のある生活をする成功』をも制限してしまうことになる。」

「神に拠り頼めば、自分の優先順位もしっかりする。もう、右も左も分からないまま走り回る必要はないのだ。自分に与えられた使命、自分がするべきことに関して神からの見識を頂き、またそれを実現できる!という希望を持つことができる。人生のバランスとフォーカスがはっきりする。自分が力を注ぐべきこととそうでないことの区別がしっかりできるようになるのだ。」

「あなたを惑わせるグルに、おさらばだ。彼らは『あなたが知る必要があることを、私はすでに知っている。しかしそれを教える前に、私のテクニックを学び、私のイニシエーションを経験し、私の世界観を受け入れ、多くの寄付をしなければならない』というテクニックを使い、あなたを混乱させる。『グル』の中にはビジネススーツを着た人物もいる。自分のアイディアや考えをビジネスにするために、一方的に多額の費用を払う必要はないことを忘れないで欲しい。」

「グルを捜し求めて、ヒマラヤの山奥に行く西洋人の話を聞いたことをあるだろう。砂漠や沼、ジャングルをくぐりぬけ、赤痢と戦いながら、彼は進む。ついに洞窟の中で蓮華座を組んでいるグルを見つけ、彼は深々と頭を下げた。数日後、グルが尋ねる。

『息子よ。私に何をして欲しいのですか?』

『師匠様、私は人生の答えを見つけるためにここまで来ました』するとグルは天を仰ぎ、しばらく呪文を唱えた後に静かに言います。

『人生とはバナナです。』自分の耳を疑った西洋人は、ついに爆発します。『病気やら暑さやら、これだけの骨を折って来た俺に、人生の答えを教えないつもりか?』

半分トランス状態にあったグルが目を開けます。『人生はバナナではないと言うのですか?』

グルや霊的指導者、哲学者はこんな風に人を弄ぶ。きちんとした答えもないのに、自分は答えを知っていると言って他人を騙すべきではない。あなたの懐を虎視眈々と狙っている狐がたくさんいることを忘れてはならない。こうした人々は何もないところから『思考体系』を作り出すことができるのだ。」

「イエスは、自分の教えを説く時に一銭も要求していない。ヨーガ、断食、経文、瞑想、生体自己制御や自己プログラミングなども必要ない。彼の教えは『私を信じれば、あなたの心を変えよう。あなたを新しい人に変え、たくさんの希望を与えよう』というシンプルなものだ」

「創造主は、このシステムが思考体系に終わらず、きちんと機能できる準備までしている。お金は一銭もかからないのだから、試してみると良い。試したところで、失うものは何もないのだ。」

「彼は謙虚で柔和であった。リムジンやプライベート・ジェットを乗り回していたわけでもなかった。彼はロバに乗り、十字架での残酷な死を選んだ。あなたのグルは、あなたのために死んでくれるだろうか?私たちが拠り頼むべき力あるものは、人格のない『力』ではなく、無限の力と人格を持った愛の神である。」

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾:ニュー・エイジの魅力 ニュー・エイジの魅力 指す矢; 最初に戻る。動きの蝶クリップアート;主題のための装飾: ニュー・エイジの魅力 /イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。

イエスが本当に神の御子であるならば、それに異を唱える考えや教義は偽物です。キリスト教に対する一番の批判は、三位一体の教義です。以下にその代表的なものをまとめてみましょう。

  1. イエスは善人であり、悟りを開いた頭の良い素晴らしい師で、神の化身であった。しかし彼はあくまで人間であり、受肉した神ではない。
  2. イエス同様、我々はみんな神の子供である。その事実を認識、視覚化して自らの内に取り入れる、あるいは内在する神の力につながれば、みんなイエスのようになれる。
  3. 神に子供はいない。
  4. イエスのように善行に励み、教会の教えに従っていれば、死後にこの世界に影響を及ぼす力を得ることができる。
  5. イエスの他にもたくさんの神がおり、それぞれが神が持つ力を体現している。
  6. イエスは人生の奥義を知っていたが、誰でもその奥義を知り、彼のようになれる。

神の真実を捻じ曲げるための話のすり替えは山のようにあり、歴史の中でもくり返されてきました。キリスト教的教えを説きつつも三位一体を否定する「類似品」的宗派から、精神科学などを中心にした教え、神に見せかけた悪魔礼拝(心霊術、自然力、霊への呪文、魔術等)など、種類は様々です。もちろん、こうした教えのひとつひとつを詳しく知る必要はありません。誤った教えの暗闇を歩くのではなく、真実の光の中に答えを探すことが重要です。

すでに述べたように、イエスの教えの一番の擁護者は彼自身です。自らを神と宣言し、その事実を貫くために十字架での悲惨な死を選んだ彼に、当時の人々は激怒しました。また、彼を信じない人々の怒りも買いました。多くの人は、イエスに直接対峙することよりも、それを否定し捻じ曲げることを選んだのです。イエスが神のひとり子ではないのなら、罪で穢れた彼は完璧な生贄にはなり得ず、また人類全体の罪の贖いにはなれなかったはずです。さらに、イエスが単なる人間であったなら、つまりいわゆる(・・・・)神の子の一人に過ぎなかったのなら、その罪が彼に永遠の死をもたらし、彼が復活することはなかったでしょう。

イエスが三位一体の神の一部であることを否定すること、あるいはイエスも私も神の子供であると言うことは、神のひとり子が受肉した目的を弱めるあるいは破壊することです。神は正義であり、そのルールを固守するお方です。アダムとイブの反抗は、全創造物に罪と死をもたらしました。神は人間としてこの世に生まれ、その恵みによって、罪と死の罰から人間を解放して下さったのです。単なる人間では、この罰を取り除くための生贄にはなれません。また、イエスの復活こそ、彼を神のひとり子と信じる一番の証拠です。世界中の偉大な師や預言者は、みんな墓の中に止まったままであり、彼らの肉体はとうの昔に朽ち果てました。神のひとり子であるイエスだけが、歴史上の事実として、体のよみがえりを実現したのです。

残念ながら、本ウェブサイト上で世界中の宗教やカルトをすべて見ている時間はありませんので、非キリスト教的人道主義の代表格であるニュー・エイジの基本教義を見てみましょう。ニュー・エイジは、唯一の神を認めずに人を神とします。ここに、ニュー・エイジの重大な欠点があり、また全人類の冷酷さがあります。ナチスは、「千年王国」を構築していると信じていました。彼らは超人思想を掲げ、神の存在を否定していますが、ニュー・エイジも同じです。こうした世界観に愛と慈しみの心が入る余地はなく、野蛮な拷問が待ち受けているだけです。そしてテクノロジーが発達した今日では、権利やプライバシーの侵害といったさらに残酷な拷問が起きる可能性もあります。

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ニュー・エイジ VS. キリスト教

ニュー・エイジ

キリスト教

神の性質

神は人格を持たない力あるいはエネルギーである。

神は三位一体である。

世界の性質

この世界は、神も含めてすべてが同じエネルギーから造られ、また相互に関係している。

この世界は神によって創造され、また神はその創造物とは全く別の存在である。

形而上学

すべての現実は、ひとつであり、神のエッセンスの一部である。

神は時空を超越する。

真実

真実は内在する。知識は、人間の意識や自覚と関係しており、個人が「現実」を体験するのにあわせ、流動的に変化する。I

真実は、聖書66冊の中に現れている。聖書は1500年以上の時間をかけ、3大陸にまたがる40人以上の作者により3言語を用いて書かれている。こうした多様性にもかかわらず、聖書は同じテーマ、概念、考え、組織を持つ、ひとつのメッセージを伝えている。

現実

この世界は、幻想で覆い隠されており、人間は自らの現実を造りだすことができる。

この世界は完全な物理的形状を持つ現実である。この現実を否定することには、重大な罰が伴う。

倫理

相対主義。自分が正しいと思うことを実践すべきである。

絶対主義。道徳律は人間の心にあり、判断基準としての良心を与えられている。人間は善悪を知っており、神の言葉(聖書)が導きを与える。

創造物

進化の結果であり、自らの上に構築された機械的物質に過ぎない。

自然法に則り、神の手により造られた。美と多様性に溢れているが、人間の堕落以来、崩壊の対象となった。

人間の性質

神となる潜在性を持つ霊的存在。多くは内在する神に気づいていない状態。

神のイメージに創造されたが、堕落した。

人間の問題

自らの真の可能性に気づかず、またそれを実現できない。

原罪により、全人類が罪を持つようになった。信心深さや良い行いでは、この罪は変わらない。

人間の問題への解決策

ヨーガ、瞑想、詠唱、ダンス、意志力の強化などで、自らの意識を覚醒させる。救いはオカルトあるいは超自然的行為の中にもたらされる。

イエス・キリストを神のひとり子、受肉した唯一の神と信じること。救いは創造主である神からの無償のギフトである。

生命からの一時停止。人はカルマや物理世界との結びつきを浄化させ、輪廻転生して再び世に生まれる。カルマが消滅した段階で、梵の忘却が起こる。ニナーバに入り、自我が消滅する。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)死は天国あるいは地獄の入り口である。(第一コリント13:12)(ルカ16:23)

ニュー・エイジの世界観(あるいは現在一番乱用されている言葉で「パラダイム」)とキリスト教の世界観を比べる時、一番重要なことは「証拠」です。キリスト教の世界観は、神の性質、イエスの受肉、彼の言葉、伝道活動、復活、弟子たちの殉教、イエスを信じた人々に起きる前向きな変化、創造物や物理・科学の法則等、史実に基づいた検証可能な現実に基づいています。一方ニュー・エイジの世界観は、自分の意志やプライドを意識することで神になれると言う嘘に基づいています。

ニュー・エイジの魅力は、エデンの園で蛇が語った「知恵の木の実を食べることで、神になれる」という誘惑の言葉と同じです。神に逆らったアダムとイブは神の怒りを受け、エデンの園を追放され、痛みや病気、労苦、死を体験することになりました。救いという神の無償のギフトを受け取らない選択の先に待ち受けているのは、悲劇的で凄惨な永遠の苦しみです。

ニュー・エイジの信条を信じなくても、さほど大きなことは起こりません。キリスト教では、神を否定することは「永遠」の結果をもたらしますが、ニュー・エイジでは、来世にカエルに生まれ変わるかもしれないという幻想だけです。地獄は作り事ではありません。神のひとり子であるイエスは、地獄の存在について誰よりも熱心に警告しています。地獄は救いを受けなかった罪人が住む場所であり「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」(マルコ9:48)とあります。

地獄は空間を超えて存在するひどい場所です。このひどい場所で私たちに永遠を過ごさせまいと、神は人間の姿を取ってまで、私たちにその存在を教えて下さったのです。地獄は人間のために造られたのではなく、堕天使のルチフェルそして死そのもののために、造られた場所です(黙示録20:14)。

ニュー・エイジの目標は、自我(=梵。すべてを含む基本宇宙)の完全消滅を実現することです。仏教では、自我を維持する欲の数々が取り除かれ、自我が消滅した時に、ニナーバに行き、ここで初めて、輪廻転生の苦しみから逃れることができると教えています。

一方キリスト教では、人生は一度しかなく、その後には裁きが待っていることを教えています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

あなたの罪がどんなにひどくても、神のあなたへの愛は変わりません。

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾:天国 ― 救いの先にあるもの 天国
救いの先にあるもの
指す矢; 最初に戻る。 動きの蝶クリップアート;主題のための装飾:天国 ― 救いの先にあるもの /イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

イエスを信じ、自分の個人的な救い主として彼を受け入れた人には、神の子供になる特権が与えられ(ヨハネ1:12)、また肉体が死んだ後に天国で過ごす永遠の命を含め、様々な祝福が与えられます。

肉体的な死を迎えた後、私たちの性格はそのままに、病とも死とも関係ない新しい霊的な体が与えられます。(第一コリント15:39)。キリストを信じたものは、神の御国に入って永遠に生き、イエスと同じ天からの体が与えられます。(第一コリント15:51、53)

天国は人間の心にあるものではなく、物理的場所です。パウロは「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた」(第二コリント12:4)と言っています。また黙示録の21章から22章は、新しい天と地について触れており、聖なる都、新しいエルサレムの様子が書かれています。都は、神の御国から下って来ます。およそ2,400平方キロの四角で、その城壁は碧玉で造られ、混じりけのないガラスに似た純金でできています。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られ、また、十二の門は十二の真珠で、どの門もそれぞれ一つの真珠からできています。万物の支配者である神であられる主と小羊とが都の神殿なので、この都には神殿がありません(イエスは世の罪を取り除く神の小羊です。ヨハネ1:29、1:36参照)。

「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。(中略)しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」

新しいエルサレムは、新しい天国を投影しており、夫のために盛装した花嫁として描かれます。それは人間の間に建てられた神の幕屋であり、神は人々と共に住みます。神はすべての涙を拭い去り、そこには死も悲しみも嘆きも痛みもありません。

ヨハネは、天の御座に座った人が口を開き、話す様子を記録しています。「すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』 また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。』」 (黙示録21:5-8)

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人間は「経験」という名の誘惑に陥ります。アメリカの公立校で教えられる相対論的な道徳では、子供に「自分が正しいと感じること」を行えと教えます。その一方で、善悪を説く十戒のような絶対的公理は、国政に対する教会の干渉であるという理由から、クラスに掲示することはできません。こんな状況を作り出しておきながら、学生による銃乱射事件が起きると、驚いたり混乱したりするのです。

「自分が正しいと感じること」を追求する傾向が高まるにつれ、人間の心には霊的拠り所がなくなり、本物と偽物を見分ける力が弱くなりつつあります。物理に大きく頼る科学はキリスト教と違います。科学では、超自然現象を前にしても、それが神から来たものか、あるいは悪魔から来たものかを判別できないため、霊的な質問に対する明快な回答を出せないでいるのです。

パウロは、第二テサロニケ2:1-12で、悪魔の働きをする「不法の人」の存在について述べています。この人物は、「主の日」の前にやってくる背教時代に登場する不法と破壊の人物です。

「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(第二テサロニケ2:4)

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い・・・」(第二テサロニケ2:9)

主はその息をもって、不法の人を破滅させますが、その前に「・・・滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。 」(第二テサロニケ2:10)ここにあるとおり、しるしや不思議があったからといって、それが必ずしも神から来たものだということではありません。

イエスが様々な奇跡やわざを示した後に、律法学者やパリサイ人は、さらにしるしを求めて「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」と言います。するとイエスは「・・・悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」と答えます。(マタイ12:38-40)* たくさんの奇跡やしるしを行った後に、まだしるしを求められたイエスが不快感を表した様子をみれば、愛の神の存在を証明する証拠として不思議やしるしばかりを求めてはいけないことが分かります。現代の教会は「不思議としるしを求めるバイ菌」に冒されている傾向にあります。もちろん、全能の神にはどんなことでも可能であり、病気の人を癒したり、預言を与えることもできます。しかし、罪を告白していない、罪深い、自己中心的な人間の望むとおりの不思議やしるしを神に期待するのは、神に対する冒涜行為です。

*これは、自らの死と3日目の復活を説明している言葉です。

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾:欺きの霊 欺きの霊 指す矢; 最初に戻る。 動きの蝶クリップアート;主題のための装飾:欺きの霊 /イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。

神の「わざ」を求める人々は、その心の中に欺きの霊を迎え入れることになります。神を、魔法のランプから出てくる精霊か何かと勘違いしている人は、神を人間の知恵の中に制限し、引いては神の力や計画を制限することになります。彼らと神との関係は表面的、肉体的、そして自己中心的です。「神の霊的な力を求めて・・・」と言いながら、積極的思考や自己肯定的意識の中で自らの目標を実現しようとする人は、神の計画や神の意志ではなく「自らの意志」を押し通しているのです。これは、ヒットラーの「意志力」あるいは魔術の実践と何ら変わりありません。こうした態度は、欺きの霊(堕天使)に力を与えることであり、彼らにあなたの人生の操縦桿を明け渡し、破滅へと導くチャンスを与えてしまいます。

イエスは、終わりの日の神の裁きについて、次々と「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」(マルコ13:22)と語っています。教会の会衆が不思議としるしを執拗に求めたり、エンターテイナーのように色々なことをしてみせる牧師の礼拝に人が集まるのは危険なことです。自ら「霊の賜物がある」と言うような人には、芸能人並みの知名度を誇るエンターテイナーのような牧師同様の注意を払う必要があります。また、参加者同士に対する「預言」が毎週のようにされる聖書研究会も危険です。

クリスチャンが集まる一番の目的は、神を礼拝し、神の言葉を学ぶことです。その中心は神であり、人間ではありません。神を中心とした礼拝の中で、癒しや預言、知恵の言葉や異言の解釈などが整然となされるのであれば問題はありません。しかし、神の栄光を称えるよりも、単なる「しるしと不思議」に終始している礼拝がある場合、そこに欺きの霊が働いている可能性が高いでしょう。明らかに神から出たものではない超自然的な働きを求めることは、C・S・ルイスが「オカルトへの切望」と呼ぶ、一番の放蕩です。

イエスが教えたように、他人や自分自身への信仰は自分勝手な思い違いであり、神への信仰を持つことが大切です。あるクリスチャンがこう言っています。「私の信仰は小さいが、私の神は偉大な神である。」神は人を癒します。しかし神が毎回必ず人を癒すとは限りません。神が人の病気を治しても、治さなくても、私たちを愛して下さっている神を、愛していくべきです。私たちが望む「信仰の形」や「人生の形」を、神に押し付けることはできないのです。

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾:魔女、魔術、オカルト 魔女、魔術、オカルト 指す矢; 最初に戻る。動きの蝶クリップアート;主題のための装飾:魔女、魔術、オカルト。

この40年余り、様々な形をとって、魔術への興味が復活しつつあります。その中でも、映画や本など、一見害のない「エンターテイメント」と思える形での普及が目に付きます。

ご多分に漏れず、クリスチャンの95%までがこの事実を見極められないでいます。彼らはメディアに操作され、「吠えたけるライオンのように破滅を招くサタンに心を明け渡してはいけない」という聖書の警告を聞かない一般大衆同様、オブラート包みの魔女や魔術を受け入れているのです。

イエスは「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(ルカ22:31)と言っています。私たちが本や映画を見る前に、彼氏や彼女とのつきあいを始める前に、そしてあらゆる行動を起こす前に「イエス様だったらどうするだろう?(“What would Jesus do?”)」と考えなければ、私たちにも同じことが起きるのです。

魔術では、呪文と魔法を使って悪魔の力を操作したり、「使いの霊」を介して悪霊とコミュニケーションを取ったりします。しかし聖書では、「そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」(ルカ16:26)と、死人とコミュニケーションを取ることはできないと言っています。

肉体のない霊魂であるこうした悪魔は、人間の行動を熟知し、また限られた範囲ではありますが、未来の予測に関する能力もあります。

ここで、魔術や魔女に関する聖書の言葉を開いて見ましょう。

「呪術を行なう女は生かしておいてはならない。」(出エジプト22:18)旧約聖書時代、魔術は悪と反抗心に満ちた忌まわしい行いとされていました。

またモーセはイスラエルの民に「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。」(申命記18:9-14)と警告しています。

エルサレムを50年間治めていた邪悪な王、マナセに関しては「彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。」「また、彼はベン・ヒノムの谷で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行ない、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」(第二歴代誌33:2、6)と言っています。

魔術には、予言と偶像礼拝の要素があります。サムエルがサウル王をたしなめた際、サムエルは神に背くことを占いや偶像礼拝など、傲慢に振るまう罪になぞらえて話しています。「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(第一サムエル15:23)。サウル王がそむきと傲慢のために神に退けられたのなら、今日、魔術や偶像礼拝を楽しむ人やそれをよしとする人も、同じように神に退けられるでしょう。

聖書では、オカルトへの異常な興味を示す人についてもはっきり警告しています。「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らの国がペリシテ人の国のように東方からの卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。」(イザヤ2:6)

「岩の間にはいり、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。偽りの神々は消えうせる。」(イザヤ2:10-18)

またパウロも、「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。 」(ガラテヤ5:19-21)と、魔術が肉体の行いに起因することを指摘しています。この警告が、すでにクリスチャンとなっていたガラテヤの教会の人々に宛てられているのは、興味深い事実です。すでにキリストを受け入れた人々に対し、「罪を行っていたら、神の御国を相続することはできない」という警告がされているのです。自ら、またその子供たちに、魔術などの肉の行いを許可している人々は、この警告を真剣に受け止めるべきでしょう。

白魔術であろうが黒魔術であろうが、キリスト教に、それを受け入れる余地はありません。イエスは人間の罪を許すために十字架で死にました。しかしだからと言って、この罪の重さを軽視してはなりません。魔術を含め、どんな罪も、悪魔の支配への扉を開けることです。

魔女や魔法使いが登場する本や映画を楽しむだけでも(たとえその登場人物が「良い魔法使い」であったとしても)、それは魔術に足を踏み入れているのであり、その事実を正当化することはできません。

ベストセラーの『ハリー・ポッター』の主人公は、魔法使いになるための学校に通い、魔法のかけ方、魔法の薬の作り方、変身の仕方、魔法の歴史や理論などを学んでいます。彼らは「良い」魔法使いや魔女になるためにこうした勉強をしています。「悪い魔法使い」はスターウォーズの「ダークフォース」やヴォルデモートなどを連想させるキャラクターで、ハリーの両親を殺した邪悪な魔法使いとして登場します。

ハリーが、一般人のおじ、おば、いとこにいじめられていた普通の少年として描かれているシーンは、シンデレラを彷彿とさせますが、一般人である彼らが、非常に暴虐的な人物として大げさに描かれている傾向にあります。

キリスト教的に見ると、ハリー・ポッターが聖書で罪とされている魔法を学んでいること、そしておじの家を去ることに、厳しい境遇から逃れる救いの手を見出している点に問題があります。
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ハリーや彼の同級生たちは、ビンズ先生やフライアーなどのお化けから、魔術史を学びます。キリスト教では「魔術 は悪であり、救いをもたらすのは、イエス・キリストのみ。オカルトでは救いは決して得られない」と教えています。死人とコミュニケーションを取ることは、すなわち悪魔あるいは堕天使とコミュニケーションを取ることであり、また魔法の呪文を唱えることも禁止されています。

キリスト教では、救いは魔術からではなく、神のひとり子を受け入れることから来ると説いています。善は神そのものであり、また神を礼拝することで得られます。「害のない」「弦を担ぐ」程度であっても、魔術であることに変わりなく、悪の力と関係を持つことを意味します。魔術師や魔女が単にお話の登場人物として描かれているからと言って、そうした超自然的悪の存在に子供を晒すのは、決してゆるされることではありません。子供向けの映画や漫画に登場するオカルト的要素は、彼らにとって大きな魅力を持っています。ポルターガイスト現象やお化け、空飛ぶ箒、狼男、吸血鬼、魔女、巨人、こうもり、小悪魔、「幽霊廊下」などは興味をそそる話ですが、同時に私たちの心に恐れを抱かせます。オカルトには中毒性があり、「暗くて重い」こうした話やアイディアが私たちの心に染み入ります。本ウェブサイトの著者は、イエスを受け入れる前、心霊術や手相占い、占星術、東洋瞑想術などを行い、夜遅くまでオカルト映画や超自然モノのマンガに興じていました。

「闇的超自然」とは別に、天の御国(神、神のケルビムや天使)に代表される「善的超自然」が存在します。しかし、善的超自然が子供の漫画やベストセラー本に登場することはほとんどありません。土曜日の朝に放送されている子供向け番組は色々ありますが、その中で、天使が主人公の話などほとんどありません。最近メディアで見かけた唯一の天使的登場人物は、「指輪物語(Lord of the Rings)」で、フロドを追うサウロンを脅かす小人たちでしょうか。

親は、子供が目にするものをきちんと監視する責任があります。スクリーンやブラウン管上で、定期的に暴力シーンを見ている子供や大人は、暴力に対する感覚が鈍るという研究結果も出ています。オカルトに関しても、同じことが言えるのです。「イエスは弟子たちにこう言われた。『つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。』 」(ルカ17:1-2)

こうした事実を踏まえ、オカルト的エンターテイメントを楽しんでいるクリスチャンについて、どんなことが言えるでしょうか?こうした人は、不道徳な不倫やセックスはしていないけれど、アダルトビデオを楽しんでいる人と同じです。「のぞき見」を趣味としているクリスチャンなど、言語道断です。子供にとって良くないこと、罪深いことは、大人にとっても良くないことであり罪深いことです。イエスはアダルト関連の一切を否定しています。闇とかかわる人は、いずれその力に圧倒されてしまいます。毒はあくまでも毒であり、「良い毒」や「軽い毒」などありません。エンターテイメントやレクリエーション的な毒は、暗殺者が用意している毒薬と同じように、危険で致命的です。気軽な「レクリエーション的心霊術」などというのは絶対に存在しません。

オカルトやのぞき見などの罪を犯した人々がその罪から清められる唯一の方法は、イエスの贖いの血です。クリスチャンであろうとなかろうと、神に自分の罪を許してもらうよう、罪の告白をしなければなりません。クリスチャンでない人は罪の告白にあわせ、イエスを自らの心に招待する祈りを捧げましょう。(「イエス様。あなたが私のために十字架で生贄として死んでくださったことを信じます。私の罪をゆるしてください。私の心に入り、人生の主として私を導いてください」)

ルカ19:19から、魔術に対し私たちがどう対応するべきかを学びましょう。「また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。」オカルト的活動や抑圧を促進する、あるいはオカルトへの入り口である本や映画などは、この話の通り、すべて処分されるべきです。

神は悪の神でも、復讐心を持つ神でもありません。人間を幸せに導く、聖書という分かりやすいマニュアルを用意して下さっている神です。車のオイルタンクにレモネードを入れたら、車は壊れてしまいます。神が禁止している魔術や不品行、好色、ねたみ、憤り、酩酊などを続ければ、私たちの体は破壊され、魂は永遠の罪に定められます。あなたは神の存在など信じていないかもしれません。しかし神の教えを守らなければ、必ず破滅がやってきます。魔術は魅力的で、あなたに何かしらの安心を与えるものかもしれません。魔術は成功と力を与え、なんとなく幸せな気分にしてくれるものかもしれません。しかし、アダムとイブがエデンの園で蛇に誘惑された時と同じように、魔術は悪であり危険です。

魔術を実行しているなど、オカルトに深くかかわっている人には、牧師のカウンセリングを受けることをお勧めします。神とイエスを信仰の中心においた、堅実な教えを説く教会を探しましょう。イエスを神のひとり子と信じ、その血で清められたあなたには、あらゆる悪魔の支配を打ち破る力が与えられるのです。「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」(ルカ10:17)

1950年代、科学が神に取って代わるようになりました。その後、1960年代から1970年代の反体制文化では、人々は麻薬や東洋宗教、性的解放の中に平安を見出そうとします。1980年代から1990年代には、物質主義や自己崇拝が蔓延しました。しかしどれも、人間が持つ深い霊的欲求を満たすことはできませんでした。神を持たない人間の心にあいた穴は、神を持つことでしか埋められないのです。魔術は不倫と同じです。それは少しの間、スリルや喜びをもたらすかもしれません。しかし永遠の満足感、喜び、命は、神のひとり子であるイエスを通し、創造主である神との個人的関係を作ることによってのみもたらされるのです。

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾:聖徒たちにたいする悪魔の働き 聖徒たちにたいする
悪魔の働き
指す矢; 最初に戻る。動きの蝶クリップアート;主題のための装飾:聖徒たちにたいする悪魔の働き /イエスによる救いの計画を妨害するもの: ヨガセックス、 魔女、 魔術、 サタン、 悪、 霊、 カルト、 オカルト、 ニュー・エイジ神秘主義、ハタ・ヨーガ、キリスト教的ヨーガ。

本セクションでは、イエスの救いを真に経験した人が悪魔の働きに屈する可能性について検証します。

クリスチャンの心に住む聖霊は、神の力そのものです。聖霊はサタンやその手下よりも大きく力強い存在です。

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(第一ヨハネ4:4)

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 」(エペソ1:20-23)

メリル・アンガー著『悪魔は天使に何ができるのか?』では、天使や聖徒に対する悪魔の働きを以下のように説明しています。

「『人は、新しく生まれ、』(ヨハネ3:3、5)『信仰によって義と認められ、」(ローマ5:1)『キリスト・イエスにつくバプテスマを受け、』(第一コリント12:13、ローマ6:3-4)、『神から受けた聖霊の宮であり、』(第一コリント6:19-20)『贖いの日のために、聖霊によって証印を押され、』(エペソ4:30)、『キリストにあって、(神のご性質が)満ち満ちている』(コロサイ2:9-10)のです。こうした言葉を見ると、キリストが贖った人間が、サタンや悪魔の手に落ちてキリストから離れることは絶対にないと思われるかもしれません。

罪や神への反抗・不従順などによって聖霊が悲しむ時、その心に不法侵入者のように悪魔が入ってきて、クリスチャンの体をコントロールすることはありえます。大きな罪を犯したり、オカルトに身を投じたり、その他様々な罪を犯すことで、クリスチャンは悪に対する神の防御力を制限することになります。

家にたとえて、説明しましょう。家主が家を完全に管理し、すべての部屋を使っているなら、彼の許可なしには誰もその家に住むことはできません。しかし部屋を全部使わずに、また人の出入りやその人の滞在状況をきちんとチェックしていない場合には、いずれ不法侵入者が入り込んで、追い出すのに苦労することになるでしょう。こうなったら、力ずくあるいは法の助けを借りる以外、不法侵入者を追い出すのは不可能に近くなってしまいます」〔4〕

自分の父親の妻を妻にしているような不品行な人に対し、パウロは『私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。』」(第一コリント5:5)と言っています。これは、「死の力を持つ者」(ヘブル2:14)であるサタンに寝返り、罪を犯しているクリスチャンについて触れています。サタンはこの重大な罪を犯したクリスチャンの体を殺すことはできても、その霊は殺されることなく救われたとあります。サタンは、クリスチャンの体に霊的死をもたらすことはできません。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)とあるように、霊的死をもたらす力を持っているのは神だけです。

アメリカでは、クリスチャンと言えども普通の人と何ら変わらず、性的不道徳やセックス中毒などに陥りやすいという統計も出ています。しかし、ヨハネの手紙第一5:18に「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とあることにも留意しましょう。この聖句から、クリスチャンでも、罪を犯した人間には悪魔が「触れることができる」ことが分かります。私たちはみんな、神の恵みにより救われました。人として生まれ、十字架で死ぬことにより私たちの罪を取り去って下さったのが神の恵みです。神なしには、世界中で最も敬虔な伝道者ですら、永遠の罪に定められるのです。私たちの肉体と霊だけでは、神の栄光に足りません。だから「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)である贖い主のイエス・キリストが必要なのです。イエスが「わたしと父とは一つ」(ヨハネ10:30)であり「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」(ヨハネ8:58)存在だからこそ、彼が必要なのです。

チャールズ・トランブルは著書の『キリストにある勝利』の中で、こう言っています。

「『人がキリストを受け入れたら、罪を犯すことはできない』という、アンバランスで誤った理論を主張しているとは思わないで頂きたい。キリストにある生活の中でも、私たちにはキリストを拒否する自由意志が与えられている。私も、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』という聖書の言葉どおりの経験をした後で、こうした抵抗の罪を犯した歴史を持つ。しかし同時に、失敗の後の回復が信じられないほど瞬時に起こる完璧な恵みであることも学んだ。キリストにすべてを明け渡して信じれば、罪と戦う必要はなく、罪の力や罪への欲望からも完璧に解放されることを学んだ。これは解放や自由というよりは、勝利に似たものである。そして、私の聖なる勝利の人生がキリストにあることを認めるだけで、この自由は変わることなく継続するのである。」

クリスチャンに対してサタンがその力を発揮できることは、ルカ22:31を読めば分かります。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」またルカ22:24には「・・・彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」とあります。この議論は、サタンにより吹き込まれたプライドの罪によるものでしょう。これに対しイエスは「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と答えています。

ヨブ記にも似たようなサタンの働きが見られます。「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。主はサタンに仰せられた。『では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。』」(ヨブ1:10-12)そこで、サタンは主の前から去り、ヨブを苦しませます。これは「心に誘惑を送る」という生易しいものではありません。ヨブを襲った数々の苦難の中には、大風によりヨブの長男の家が倒壊し、そこにいたヨブの子供が全員死ぬという悲劇もありました。

ペテロは、「神の羊の群れを牧する」(第一ペテロ5:1-3)牧師や長老を含めたクリスチャンや教会に対し、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(第一ペテロ5:8)と警告しています。ライオンに食い尽くされるとは、つまりその強いあごで噛み砕かれ、胃に収まり、最後は排泄物になるということです。それは、ライオンの思うままにされ、壮絶な痛みと共に破壊されるという冷酷無慈悲な事実です。サタンに関し、イエスは「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)と言っています。

結論

心から罪を告白した神のまことの救いは失われませんが、そのクリスチャンが悪魔の攻撃や嫌がらせを受けることはあります。また、どんな罪であれ、キリストから離れ罪の中に身を置くのであれば、心の中に悪魔の影が落ち、完全に悪魔に憑かれることはなくても、自分の一部を悪魔に明け渡すことも考えられます。私たちの体は神の宮です。私たちには神から与えられた自由意志があります。「悪魔の影」は私たちを深い罪の淵へ、そして最終的な体の死へといざないます。

キリストを受け入れ、真の救いを経験した人の心には聖霊が宿っています。しかし、その後に神から離れ、心と体を罪に明け渡し、悪魔の束縛へのドアを開けてしまうことはあります。あなたには、自分が助けされた元の豚小屋に戻り(あるいは別の豚小屋へ移り)、泥の中を這いずり回るという選択もあります。豚小屋に行くことは、魂の不法侵入者である悪魔に、あなたの心のドアを開けることです。そして前出のアンガーが言ったように「力ずくあるいは法の助けを借りる以外、不法侵入者を追い出すのは不可能に近くなってしまいます」

罪人が心からの懺悔と共にキリストの前に跪く時、慰め主である聖霊が私たちの心に入り、それを清めます。光と闇は共存できませんから、キリストを受け入れた瞬間に、聖霊が入ります。しかし、光をともす油がなくなれば、光は闇に変わります。イエスが言ったように、一度は神の力により追い出された悪魔も、許可があれば、より大きな力となって舞い戻ってきます。罪を犯し続けるクリスチャンは、自分を霊的与力から引き離し、最終的には罪の中に死を迎えます。しかし、自分の罪を心から告白した人間は、神の恵みにより救われます。本当に救われている人は誰か、救われていると思いながら罪深い生活を送っているのは誰かを判断できるのは神だけです。

イエスは人々を悪魔の呪縛から解くことに、自らの伝道活動の1/3を費やしています。悪霊祓いは重要です。カリスマ的に「悪魔を吐き出す」といった最近の傾向に見られるように、悪霊祓いを軽視することは教会に問題を引き起こす誘引となってきました。「教会を離れたクリスチャンと言えども、一度救われた人が罪に捕われることはない」などという考えは初心であり、教会を汚す真の問題を無視していることです。悪霊憑きは悪魔化の最も極端なケースです。教会を離れたクリスチャンがこうした極端な悪や罪に落ちることはあるのでしょうか?神は私たちに自由意志を与えていますから、この質問に対する答えは「ある」です。しかし、イエスの血と力により、それを望む者にはいつでも罪や悪からの解放が与えられるのです。

1) ルカ13 10

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。 」

ルカ13:16で、イエスはこの女性を「アブラハムの娘」と呼び、神を畏れる信仰深い信者ではある彼女に霊的な問題があったことを示唆しています。

この女性がシナゴグ(ユダヤ教の寺院)の中にいても、悪魔の攻撃から身を守ることができなかった事実に注意しましょう。教会の壁もシナゴグの壁も、サタンの影響からあなたを守ってはくれません。コンクリートの壁が悪魔の攻撃に耐えられないのなら、あなたの肉体がどうしてそれに耐えられるでしょう?

霊界は自然の境界にも、物理の法則にも制限されません。アブラハムの娘に対するイエスの悪霊祓いは、十字架での死と聖霊降誕の前に起きたことです。しかしこの話を見れば、クリスチャンも悪魔の呪縛の対象であることは明確でしょう。

イエス・キリストキリストの十字のデッサンクリップアート;主題のための装飾:キリスト教とヨーガ/ ヨガ セックス 。 キリスト教とヨーガ 指す矢; 最初に戻る。動きの蝶クリップアート;主題のための装飾: キリスト教とヨーガ/ ヨガ セックス 。

ヨーガは、中央アフリカ、ロシア、オーストラリア等、洋の東西を問わす浸透しており、ヨーガ教室の広告は大学の掲示板から、健康食品の専門店、ロサンゼルスのビジネス街にある高層マンションのエレベータ、そしてYMCAの体操教育に至るまで、あらゆる所に貼られています。しかしヨーガを単なるエクササイズとして片付けてよいのでしょうか?

ヨーガの体位(アーサナ)に関し、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは著書の『ラージャ・ヨーガ(王者のヨーガ)』で「一連の精神的・肉体的鍛錬は、一定の高位につくまで毎日続けられる。新しい神経の流れと新しい種類の霊気が生まれ、全組織・全構造があるべき姿に再構築されていく」と述べています。

フランス人ヨーガ研究家であるアラン・ダニエルの『ヨーガ ― 再統合のために』では、ヨーガを行う真の重要性は「霊的肉体を引き出すことを目的に、物理的に汚れた体を制御するプロセス」にあると指摘しています。霊的肉体は、非常に複雑であり、物理的な汚れた体と関連している7万2千本もの脈間(nadis)から成るとされています。霊的肉体と物理的肉体はチャクラと呼ばれる7つのエネルギーセンターに接続しています。

チャクラは、個人の意識を制御する場所と信じられています。様々なヨーガのポーズをして脊椎を動かすことにより、霊的肉体からのエネルギーの流れが良くなり、個人の意識が変わると信じられています。クンダリーニ・ヨーガやハタ・ヨーガでは、体位や呼吸法により、直接チャクラを操作します。

体よりも心が優位に立つと信じるマントラ・ヨーガも、マントラをくり返し唱えることで個人の意識を変化させることを説いています。このマントラは、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのグル(師)である「グル・デーブ」が生み出したもので、「神々の好む名前」のマントラです。声を出さずあるいは声に出して、数時間もマントラをくり返すことにより、意識の変化が生まれます。

ヨーガは、東洋宗教の形而上学と密接な関係にあり、単なる心身のリラックスといった簡単なことでは片付けられません。ヨーガの目的は、ヒンズー教の目的と同じ「梵の実現」です。『超能力とオカルト』(クリフォード・ウェルドン、ジョン・ウィルソン共著)では「ヨーガを物理的に経験することは、肉体を物理精神的変化に準備させることにあり、それは、人間の意識や存在の中に梵の実現を投入する重要な変化を含んでいる」とあります。となれば、ヨーガの実践とその理論を別に考えるのは無理な話です。ヨーガの実践とその理論をきちんと区別することは難しく「私はヨーガをやるけれど、ヒンズー教とは関係ない」と言う発言は、筋が通っていません。

カリフォルニア州バークレー市にある宗教関係研究団体「Spiritual Counterfeits Project」発行の書物では、ヨーガと東洋宗教の関係をこう説明しています。「ヨーガを実践し、その物理的側面の一部に触れることで、『美しい体を作る』といったブルジョア階級の世俗的幻想は一時的に満たされるかもしれない。しかし、ヨーガの実践が東洋宗教的形而上学とは決して切り離せない事実は歴然としている。ヨーガの実践とインド形而上学は相互依存の関係にあり、どちらかだけを取ることは不可能なのだ。」

近代ヒンズー教で最も普及しているシャンカラでは、雨粒を個人の魂、海を普遍的魂のシンボルとしています(イサム・ヤマモト「SCPニュースレター」より)。「雨粒が海に吸収されていく事実は、個人が非個人的宇宙に吸収されていくことを象徴している。人間は悟りを開くと、そのアイデンティティを失い、すべてを包容したひとつのまとまりになる。吸収されることこそ、一元論的ヒンズー教の目的である。

仏教では、ろうそくの光で個人を表す。それは、孤独の闇の中で揺らめく命の光を意味し、熱心な仏教徒は、自らの手でその光を消すことを目標とする。彼らが求めるのは単なる肉体の死ではなく、『物理的・霊的人生から我々を解き放つ死』である。」〔5〕

本ウェブサイトの著者は、マントラ・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガの実践にかなりの経験があり、その詳細に精通しています。ヨーガをすることで、確かに意識の変化は得られます。しかし、ヨーガの練習を積むにつれ、その影響が抑圧的なものになり、自分と外界とを遮断するようになります。

感覚入力が増し、外からの刺激へ過剰反応をするようになり、過度の心配や不安に襲われるようになりました。ヨーガの体位を取りながら瞑想をする集中講座を取った時など、何度か気を失っただけでなく、1時間半も意識が戻らないこともありました。意識が戻っても、それだけの時間が経ったという感じもせず、また何が起きたかも全く覚えていないという状況です。

こうした経験から、私はドアが閉まる音、ジェット機や車の騒音など、些細なことで取り乱すようになりました。瞑想やヨーガから来るこうした経験の多くは、典型的な不安障害の症状に似ています。(症状の詳細は、パニックアタック等に代表される不安障害に対する非医療的アプローチを取り上げた有名なオーストラリア人医師のクレア・ウィークスの『あなたの神経を救うには』に詳しく書かれてあります。)

瞑想やヨーガは、多くの場合、不安障害の原因となります。私の場合、瞑想やヨーガにより、非現実的意識や精神分裂、鬱症状を経験するようになりました。いわゆる「意識が高まった」状態は、神経が極端な鋭敏状態にあることを指すのであり、精神安定剤の使用者が感じるような、非現実感を生み出します。

ヨーガは害のない、健康的エクササイズという仮面を被って、社会に広がっていますが、現実はまったく違います。「ヨーガの鍛錬を誤解することが、死や精神異常を意味するとなれば、ヨーガは単なる冗談で済まされることではない。(呼吸法に)誤りがあれば、その人は即死の危険にある。」〔6〕

ヨーガの鍛錬における「わずかなミス」でも失神、トランス状態、精神異常等に陥ることがあります。スワミ・プラバーヴァナンダのヨーガおよび神秘思想では、誤ったヨーガの鍛錬により、脳損傷、治療不可能な病気、精神異常等が起きる可能性があると警告しています。

散歩や絵画鑑賞、スポーツ、外食、休暇など、ヨーガ以外にもたくさんのストレス発散法があります。また堅強な肉体は、ウェイト・リフティングやジョギング、水泳などで作ることができます。

前出の『超能力とオカルト』では、「ヨーガやオカルトの書物が証明している通り、ヨーガは正真正銘のオカルト主義である」〔7〕とあります。オカルトの能力は、ヨーガの鍛錬から得ることができ、またオカルト主義の危険は多くの研究や書物で指摘されています。〔8〕ヨーガ学者でありサンスクリットの権威でもあるミシュラは「最後に、それに気づいているかいないかは別にして、超能力者による警察への捜査協力や神秘主義、そしてオカルト主義の裏に、ヨーガのシステムがあると言えるであろう」〔7〕と言っています(カート・コッホはオカルト主義に伴い、時には自殺に通じる不安症や鬱病について、何冊もの著書があります)。

聖書には、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)とあります。人間は神によって造られた、神とは違う生き物です。人間は、神のひとり子、受肉した神であるイエス・キリストを受け入れることで、生ける神との関係を持つことができます。ヒンズー教では、ヨーガにより、意識を高いレベルに上げることで神そして梵とひとつになることができると、仏教では火を消すように、人はその個性を殺すことができると教えます。しかし聖書は違います。聖書は、人間が神になれると主張するヨーガやその他のいかなるシステムについても、認めていません。

神は人間とは全く違う存在ですから、自らの行いによって神に近づくことはできません。アダムとイブの犯した原罪により、人間には致命的欠陥ができました。人間は罪の内に生まれているのです。しかし人間を心から愛している神は、贖いの計画を立てています。人間の罪を贖うために神が人間となり(ヨハネ1:14)、完璧な生贄として捧げられたのです。罪がないのは神だけです。このため、完璧な生贄は神ご自身でなければなりません。神の救いの計画であるそのひとり子を信じることにより、人間は神の臨在の内に永遠の命を持つことができるのです。地上の肉体は死と共に消え去り、代わりに永遠の体が与えられます。人間は神になることも、神とひとつになることもありません。救いは神の恵みによって与えられる無償の贈り物であり、誰かの努力によって手に入れられるものではないのです。

ヒンズー教も仏教も、輪廻転生を信じています。カルマを打ち破るため、あるいは現世への思いを断ち切るため、人は輪廻転生します。ヨーガを通して意識を高めることによってのみ、また現実世界(「空想のベール」)を貫くことによってのみ、人は梵とひとつになる、あるいは命の火を消し、ニナーバを得ることができるというのが、こうした宗教の教えです。

しかし聖書では、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と教えています。キリストを受け入れることは、善、喜び、清廉の源である世界の創造主、個性を持つ神を受け入れることです。キリストを受け入れた人には、裁きはありません。キリストを全く知らない人は、神は完全な公正を持って彼らを裁きます。しかし、キリストを知りながらそれを拒否した人々は、イエスが何度も警告している、神が存在しない場所(=地獄)で永遠の苦しみを過ごすことになります(マルコ9:48)。

ヨーガはより良い人生や健康への万能薬ではありません。ヨーガは、人が神になろうとするシステムです。ヨーガをはじめとする人間の行い、鍛錬、努力は、神の正義の前では汚れたぼろ雑巾のようなものです。なぜ、幻想の奴隷になって一生を過ごそうとするのですか?輪廻転生から抜け出ることを望み、何時間もの時間をヨーガと瞑想に費やすのですか?人間は、決して神にはなれません。アダムの罪により、人には死が定められています。死ぬ運命にある人間が、自分を神どころか天使と比べることすら、無理な話です。ダニエルは大天使ガブリエルを見た時の様子をこう書いてます。

「私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。」(ダニエル10:5-8)

人間が神になる必要はありません。神の方から、その手を私たちに向けて伸ばしています(黙示録3:20)。私たちに必要なのは、その手を取ってイエスを受け入れるという決断を下すことだけです。ごくシンプルな言葉で、自分の人生の主となってくれるよう、イエスに頼んで下さい。そうすれば、聖霊があなたの心に入り、平和、喜び、自信や確信が与えられます。その時になって初めて、あなたは自分の古い殻を打ち破り、神を知ることができるのです。

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参考文献
〔1〕 Colin Weightman and Robert W. McCarthy , A Mirage from the East (Adelaide, Australia Lutheran Publishing House, 1977, p.8
〔2〕 B.B. Warfield, Biblical and Theological Studies (Philadelphia Presbyterian & Reformed, 1952), p. 455
〔3〕 Herring, Michael, Succeed With Solomon’s Principles , Winepress Publishers, Enumclaw, Washington, 1998, p.175-176
〔4〕 Unger, Merrill, What Demons Can Do To Saints. Chicago Moody Press, 1991)
〔5〕 J.Isamu Yamamoto, SCP Newsletter , March-April 1983
〔6〕 Rieker, The Yoga of Light (Los Angeles Dawn House) 1974, p. 135
〔7〕 R.S Mishra's Yoga Sutras and Fundamentals of Yoga , J. Brennan's Astral Doorways and H. Chaudhuri's Philosophy of Meditatio
〔8〕 K. Koch's Christian Counseling and Occultism
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(英語)
はじめに
1.目次
2 神は存在するのか?
3 魔術とヨーガ
4 天国への道
5 神が実在する証拠
6 神の愛と怒り
7 キリスト教以外の宗教や思考体系
8 偽りの神や預言者
9天地創造論VS. 進化論
10 その他のリンク
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