この40年余り、様々な形をとって、魔術への興味が復活しつつあります。その中でも、映画や本など、一見害のない「エンターテイメント」と思える形での普及が目に付きます。
ご多分に漏れず、クリスチャンの95%までがこの事実を見極められないでいます。彼らはメディアに操作され、「吠えたけるライオンのように破滅を招くサタンに心を明け渡してはいけない」という聖書の警告を聞かない一般大衆同様、オブラート包みの魔女や魔術を受け入れているのです。
イエスは「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(ルカ22:31)と言っています。私たちが本や映画を見る前に、彼氏や彼女とのつきあいを始める前に、そしてあらゆる行動を起こす前に「イエス様だったらどうするだろう?(“What would Jesus do?”)」と考えなければ、私たちにも同じことが起きるのです。
魔術では、呪文と魔法を使って悪魔の力を操作したり、「使いの霊」を介して悪霊とコミュニケーションを取ったりします。しかし聖書では、「そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」(ルカ16:26)と、死人とコミュニケーションを取ることはできないと言っています。
肉体のない霊魂であるこうした悪魔は、人間の行動を熟知し、また限られた範囲ではありますが、未来の予測に関する能力もあります。
ここで、魔術や魔女に関する聖書の言葉を開いて見ましょう。
「呪術を行なう女は生かしておいてはならない。」(出エジプト22:18)旧約聖書時代、魔術は悪と反抗心に満ちた忌まわしい行いとされていました。
またモーセはイスラエルの民に「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。」(申命記18:9-14)と警告しています。
エルサレムを50年間治めていた邪悪な王、マナセに関しては「彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。」「また、彼はベン・ヒノムの谷で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行ない、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」(第二歴代誌33:2、6)と言っています。
魔術には、予言と偶像礼拝の要素があります。サムエルがサウル王をたしなめた際、サムエルは神に背くことを占いや偶像礼拝など、傲慢に振るまう罪になぞらえて話しています。「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(第一サムエル15:23)。サウル王がそむきと傲慢のために神に退けられたのなら、今日、魔術や偶像礼拝を楽しむ人やそれをよしとする人も、同じように神に退けられるでしょう。
聖書では、オカルトへの異常な興味を示す人についてもはっきり警告しています。「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らの国がペリシテ人の国のように東方からの卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。」(イザヤ2:6)
「岩の間にはいり、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。偽りの神々は消えうせる。」(イザヤ2:10-18)
またパウロも、「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。 」(ガラテヤ5:19-21)と、魔術が肉体の行いに起因することを指摘しています。この警告が、すでにクリスチャンとなっていたガラテヤの教会の人々に宛てられているのは、興味深い事実です。すでにキリストを受け入れた人々に対し、「罪を行っていたら、神の御国を相続することはできない」という警告がされているのです。自ら、またその子供たちに、魔術などの肉の行いを許可している人々は、この警告を真剣に受け止めるべきでしょう。
白魔術であろうが黒魔術であろうが、キリスト教に、それを受け入れる余地はありません。イエスは人間の罪を許すために十字架で死にました。しかしだからと言って、この罪の重さを軽視してはなりません。魔術を含め、どんな罪も、悪魔の支配への扉を開けることです。
魔女や魔法使いが登場する本や映画を楽しむだけでも(たとえその登場人物が「良い魔法使い」であったとしても)、それは魔術に足を踏み入れているのであり、その事実を正当化することはできません。
ベストセラーの『ハリー・ポッター』の主人公は、魔法使いになるための学校に通い、魔法のかけ方、魔法の薬の作り方、変身の仕方、魔法の歴史や理論などを学んでいます。彼らは「良い」魔法使いや魔女になるためにこうした勉強をしています。「悪い魔法使い」はスターウォーズの「ダークフォース」やヴォルデモートなどを連想させるキャラクターで、ハリーの両親を殺した邪悪な魔法使いとして登場します。
ハリーが、一般人のおじ、おば、いとこにいじめられていた普通の少年として描かれているシーンは、シンデレラを彷彿とさせますが、一般人である彼らが、非常に暴虐的な人物として大げさに描かれている傾向にあります。
キリスト教的に見ると、ハリー・ポッターが聖書で罪とされている魔法を学んでいること、そしておじの家を去ることに、厳しい境遇から逃れる救いの手を見出している点に問題があります。
ハリーや彼の同級生たちは、ビンズ先生やフライアーなどのお化けから、魔術史を学びます。キリスト教では「魔術 は悪であり、救いをもたらすのは、イエス・キリストのみ。オカルトでは救いは決して得られない」と教えています。死人とコミュニケーションを取ることは、すなわち悪魔あるいは堕天使とコミュニケーションを取ることであり、また魔法の呪文を唱えることも禁止されています。
キリスト教では、救いは魔術からではなく、神のひとり子を受け入れることから来ると説いています。善は神そのものであり、また神を礼拝することで得られます。「害のない」「弦を担ぐ」程度であっても、魔術であることに変わりなく、悪の力と関係を持つことを意味します。魔術師や魔女が単にお話の登場人物として描かれているからと言って、そうした超自然的悪の存在に子供を晒すのは、決してゆるされることではありません。子供向けの映画や漫画に登場するオカルト的要素は、彼らにとって大きな魅力を持っています。ポルターガイスト現象やお化け、空飛ぶ箒、狼男、吸血鬼、魔女、巨人、こうもり、小悪魔、「幽霊廊下」などは興味をそそる話ですが、同時に私たちの心に恐れを抱かせます。オカルトには中毒性があり、「暗くて重い」こうした話やアイディアが私たちの心に染み入ります。本ウェブサイトの著者は、イエスを受け入れる前、心霊術や手相占い、占星術、東洋瞑想術などを行い、夜遅くまでオカルト映画や超自然モノのマンガに興じていました。
「闇的超自然」とは別に、天の御国(神、神のケルビムや天使)に代表される「善的超自然」が存在します。しかし、善的超自然が子供の漫画やベストセラー本に登場することはほとんどありません。土曜日の朝に放送されている子供向け番組は色々ありますが、その中で、天使が主人公の話などほとんどありません。最近メディアで見かけた唯一の天使的登場人物は、「指輪物語(Lord of the Rings)」で、フロドを追うサウロンを脅かす小人たちでしょうか。
親は、子供が目にするものをきちんと監視する責任があります。スクリーンやブラウン管上で、定期的に暴力シーンを見ている子供や大人は、暴力に対する感覚が鈍るという研究結果も出ています。オカルトに関しても、同じことが言えるのです。「イエスは弟子たちにこう言われた。『つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。』 」(ルカ17:1-2)
こうした事実を踏まえ、オカルト的エンターテイメントを楽しんでいるクリスチャンについて、どんなことが言えるでしょうか?こうした人は、不道徳な不倫やセックスはしていないけれど、アダルトビデオを楽しんでいる人と同じです。「のぞき見」を趣味としているクリスチャンなど、言語道断です。子供にとって良くないこと、罪深いことは、大人にとっても良くないことであり罪深いことです。イエスはアダルト関連の一切を否定しています。闇とかかわる人は、いずれその力に圧倒されてしまいます。毒はあくまでも毒であり、「良い毒」や「軽い毒」などありません。エンターテイメントやレクリエーション的な毒は、暗殺者が用意している毒薬と同じように、危険で致命的です。気軽な「レクリエーション的心霊術」などというのは絶対に存在しません。
オカルトやのぞき見などの罪を犯した人々がその罪から清められる唯一の方法は、イエスの贖いの血です。クリスチャンであろうとなかろうと、神に自分の罪を許してもらうよう、罪の告白をしなければなりません。クリスチャンでない人は罪の告白にあわせ、イエスを自らの心に招待する祈りを捧げましょう。(「イエス様。あなたが私のために十字架で生贄として死んでくださったことを信じます。私の罪をゆるしてください。私の心に入り、人生の主として私を導いてください」)
ルカ19:19から、魔術に対し私たちがどう対応するべきかを学びましょう。「また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。」オカルト的活動や抑圧を促進する、あるいはオカルトへの入り口である本や映画などは、この話の通り、すべて処分されるべきです。
神は悪の神でも、復讐心を持つ神でもありません。人間を幸せに導く、聖書という分かりやすいマニュアルを用意して下さっている神です。車のオイルタンクにレモネードを入れたら、車は壊れてしまいます。神が禁止している魔術や不品行、好色、ねたみ、憤り、酩酊などを続ければ、私たちの体は破壊され、魂は永遠の罪に定められます。あなたは神の存在など信じていないかもしれません。しかし神の教えを守らなければ、必ず破滅がやってきます。魔術は魅力的で、あなたに何かしらの安心を与えるものかもしれません。魔術は成功と力を与え、なんとなく幸せな気分にしてくれるものかもしれません。しかし、アダムとイブがエデンの園で蛇に誘惑された時と同じように、魔術は悪であり危険です。
魔術を実行しているなど、オカルトに深くかかわっている人には、牧師のカウンセリングを受けることをお勧めします。神とイエスを信仰の中心においた、堅実な教えを説く教会を探しましょう。イエスを神のひとり子と信じ、その血で清められたあなたには、あらゆる悪魔の支配を打ち破る力が与えられるのです。「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」(ルカ10:17)
1950年代、科学が神に取って代わるようになりました。その後、1960年代から1970年代の反体制文化では、人々は麻薬や東洋宗教、性的解放の中に平安を見出そうとします。1980年代から1990年代には、物質主義や自己崇拝が蔓延しました。しかしどれも、人間が持つ深い霊的欲求を満たすことはできませんでした。神を持たない人間の心にあいた穴は、神を持つことでしか埋められないのです。魔術は不倫と同じです。それは少しの間、スリルや喜びをもたらすかもしれません。しかし永遠の満足感、喜び、命は、神のひとり子であるイエスを通し、創造主である神との個人的関係を作ることによってのみもたらされるのです。
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