旧約聖書には、神の愛と神の怒りがたくさん登場します。一方、新約聖書のメッセージはとてもシンプルです。聖書のメッセージを理解するには、神の御子イエスを通して与えられる救いの計画を理解することが重要です。 |
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永遠のメッセージ
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救いの計画 -旧約聖書から新約聖書へ
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人間に「永遠」はありません。すべてのものが絶え間ない変化と混乱に立ち向かう中、岩のごとく堅固なたたずまいを見せるのは、神だけです。神は正義であり、真実です。神は善であり、人間の必要を満たします。神を知らない人間は、川の中で捕まるものを見つけられずに流されていくようなものです。神を悪と呼ぶ人は、神の真の姿を知らない人々であり、自らの姿を神の中に見出しているに過ぎません。罪による堕落の中で、彼らはプライドと、意味のない信念と哲学と、悪魔に汚された教理を抱いています。自らを神と崇めてはかない人生を送る人間は、絶対的な指針を持たない「人間性」の中で、破滅への道を進んでいくのです。
聖書のメッセージはいたって簡単です。救いの計画を理解することは、キリスト教のメッセージの理解には欠かせません。神は創造主であり、アルファでありオメガです。人間の救いは、神の計画です。神は最高の芸術家であり、究極のプログラマーです。神は「善」そのものです。この世の終わりに、人間が悪を善と、善を悪と呼ぶようになると、聖書は警告しています。今日の相対的な「善」は、人間の意見で決められたものであり、政治的・社会的見地に立った意見に過ぎません。
神の善は、その慈悲深さの中に見ることができます。神は人間に食物、洋服、エネルギー、家といった必需品はもちろん、美やバラエディに富んだ生活環境まで提供してくれます。神にあまりにも大事にされた人間は、こうした資源の利権をめぐって戦争を起こし、第二次大戦中には1,500万人の犠牲者を出しました。人間の中に善悪の二面性を生み出しているのは、神ではありません。神の美しい創造物を壊し、汚しているのは人間であり、神を知らない人間は、最悪の事態を引き起こすことも可能なのです。
人間の心に内在する罪への屈従から解放されるための第一歩は、神の性質と人間に対する神の計画を理解することです。超自然の世界とそこでの悪の働きを理解することで、霊的暗黒の実態が見えてきます。イエスを自分の個人的救い主として受け入れることは、神による人間の救いの計画を実現することに他なりません。
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神は、美と多様性と複雑性のある世界を造られました。神は自分の友としてアダムを造り、エデンの園に住まわせて、こう命じました。「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」
(創世記2:16-17) しかし神はアダムをロボットのように造ったのではありません。アダムには自由意志が与えられており、彼が望めば知識の木から実を取って食べることもできたのです。
アダムの幸せを望んだ神は、彼が一人でいるのは良くないと考えました。そこでアダムのあばら骨を一本とって、彼の助け手としてイブを造ったのです。イブは善悪の知識の木の実は食べてはならないことを承知していましたが、蛇に「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と誘惑されて木の実を食べ、夫であるアダムも食べてしまいます。 |
クリップアート;庭のアダム とイヴ のデッサン。
キリスト教の宗教デッサン。 クリップアート。 素材(無料ウェブ用画像) |
神は、イブに出産の苦しみを増すと言い、アダムには彼の罪のためにこの世界が呪われ、働き、そして死ななければならないと言いました。善悪の知識の木を食べたアダムとイブは自分たちが裸であることを知り、いちじくの木の葉で洋服を作ります。それから「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21) とあるように、神は動物を殺してまで、彼らに洋服を与えたのです。
神は自分が創造した世界を見て、「それは良かった」と言っています。しかし人間の罪のゆえに、この世界に死が入り込みました。人間の不従順のために、人の血が流されなければならなくなったのです。神はアダムとイブをエデンの園から追放しました「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22) |
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悪魔、ルチフェル
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エデンの園の悪魔は「ルチフェル」または「サタン」と呼ばれています。預言者エゼキエルは、ツロの王になぞらえて、ルチフェルをこう表現しています。 |
「人の子よ。
ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。
神である主はこう仰せられる。
あなたは全きものの典型であった。
知恵に満ち、美の極みであった。
あなたは神の園、エデンにいて、
あらゆる宝石があなたをおおっていた。
赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、
緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、
トルコ玉、エメラルド。
あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、
これらはあなたが造られた
日に整えられていた。
わたしはあなたを油そそがれた
守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。
あなたの行ないは、
あなたが造られた日からあなたに
不正が見いだされるまでは、完全だった。
あなたの商いが繁盛すると、
あなたのうちに暴虐が満ち、
あなたは罪を犯した。
そこで、わたしはあなたを汚れたもの
として神の山から追い出し、
守護者ケルブが火の石の間
からあなたを消えうせさせた。
あなたの心は自分の美しさに高ぶり、
その輝きのために自分の知恵を腐らせた。
そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、
王たちの前に見せものとした。」
(エゼキエル28:12-17) |
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ルチフェルの神への反抗は、自分の美しさを誇ったプライドに根ざしています。しかし彼の美しさは、そもそも創造主である神が与えたものです。黙示録では、神の天使がルチフェル(竜)と彼の使いたちと戦う様子が描かれています。
「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」(黙示録12:7-9) |
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天使や竜の使いも神の創造物であり、人間と同じように一人一人独特の性格と、望めば神に反抗する自由意志を持つものとして造られました。ミカエルと彼の使いたちは、竜とその使いに勝利します。善は悪より強し。善悪は、人間が作り出した哲学や宗教や、軽薄文化で言われるようなコインの裏表ではなく、明らかに別のものなのです。 |
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ネフィリムと大洪水
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竜は、エデンの園で蛇の姿をとってアダムを騙した後、天から追い出されました。アダムとイブの子孫が地上に増えると「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」(創世記6:2)のです。
「神の子」と「人の娘」とあるように、この二種類の生き物が区別されていたことが分かります(ここに書かれている「神の子」は、堕天使を指しているものと思われます)。聖書で「神の子」は、超自然的ではあるが神の性質を持たないものという意味で使用されています。次の聖句を見ると、神がこうした事態を喜ばなかったことがわかります。 |
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「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。』と仰せられた神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:3-5) |
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神は、悪がはびこることを喜びませんでした。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 (創世記6:7)創造物である人間は神を汚し、「神の子」である堕天使と交わることにより、この世界に悪を蔓延させていったのです。しかしノアは正しい人で、神の思いにかなう人でした。神はノアに箱舟を造り、動物と家族と一緒に入るように命じます。そして「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。」(創世記7:11-12)この雨で、世界で一番高い山も水に埋もれ、この世界からすべての生き物がいなくなりました。
人間の起源に関しては、聖書的な天地創造論と進化論が存在します。進化論は、神の存在を無視し、自然の発生を「偶然と適者生存と突然変異の結果」と主張します。これはつまり、偶発的に自らを構築していく原型質性組織と天地創造を等しく考えていることに他なりません。進化論では「偶然性」を主張しますから、現在の天地創造に、少なくとも数百万年という時間がかかったことになります。加えて、他種に進化した生物種がいないこと、突然変異は単なる退行でしかなく、また自己繁殖もないことといった事実に、進化論は目をつぶってしまいます。こうした事実を考えれば、進化論は科学的学説と言うより、むしろ思考体系といった方が正しいでしょう。
進化論の考え方をこんな例で説明してみましょう。腕時計を外して、ジューサーミキサーに入れ、スイッチを押します。ミキサーの中に入れられていた腕時計が、自らを再びきちんと元の形に戻して機能することはほぼ不可能でしょう。もちろん、知性を持つ存在(人間)が腕時計を取り出して修理しなければなりません。最も単純といわれている生物でも、その組織は腕時計よりもずっと複雑です。生命体は、2進コードでプログラムされており、この世界は物理の法則というしっかりとした組織の上に成り立っています。
世界中にある油田の存在は、ノアの大洪水によって簡単に説明がつきます。洪水による大きな潮流の動きにより、洗い流された大量の生物の死骸が一度に集められる一方で、火山が噴火し、溶岩が流れ出て地表を覆いました。この熱と圧力により、炭素系の植物や生物があっという間に油になります。洪水による急激な腐食と沈泥があれば、グランドキャニオンのような地形も、簡単に出来上がります。現在の油田や地形の構築には、進化論が主張するような数百万年という時間は、必要ありません。
進化論は、知性を持ち、創造物とは一線を画す創造者の必要性を否定します。進化論では創造物そのものが神と考えられ、自らの努力で最終的には神になることができるため、人間にとって非常に魅力的に映ります。そしてこうした人間は、ルチフェルと同じように、プライドの高い心を持つようになります。プライドは、神に対する公然とした侮辱です。エデンの園で「神のようになれる」と言ってイブを騙した蛇にも、プライドの罪がありました。アダムとイブが神のようになろうと神に逆らったため、すべての創造物が罪と邪悪に汚されました。この悲劇のすべては、神だけが持ちうる権利を奪い取ろうとする人間の罪に根ざしているのです。
しかし神は、人間をこの罪から救うため、アダムとイブから、ノア、アブラハム、ヤコブ、イサク、ダビデ、ヨセフ、イエスが生まれるように、彼らの家系を守ってくださいました。
洪水の後、神はノアとその息子に対し、地に群がり、増えるようにと告げました。しかし洪水の後でも人間のプライドは消えることなく、シヌアルの地にバベルの塔を建て始めたのです。 |
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「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」(
創世記11:4-8) |
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裁かれるパロ
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神は、神を心から求める正しい人々と交わりたいと思っています。アブラハム、イサク、ヤコブはこうした神の目にかなった人々でした。神は彼らと彼らの子供を祝福する契約を結び、ヤコブは神によりイスラエルという新しい名前をもらいます。また、パロの夢の解き明かしをしてエジプトの権力者となったヨセフのおかげで、ヤコブの息子たちはエジプトに住むようになりました
ある日パロは夢を見ます。ナイルの川岸に立っていると、ナイルから、つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいました。するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立ち、醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまうのです。
ここで、夢の解き明かしができると評判のヨセフが、パロに呼ばれます。ヨセフは夢の解き明かしをするのは自分ではなく、神本人だと前置きをした上で、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れた後、七年間のききんが起こることを伝えます。ヨセフが神に守られた人であることを認めたパロは、ヨセフをこのききん対策の責任者に命じました。
時が過ぎ、エジプトで、ヤコブの子孫であるイスラエル人が増え続ける一方、ヨセフを知らず、イスラエル人がエジプト人よりも多くなることを恐れた新しい王が登場し(出エジプト1:8)。イスラエル人を奴隷にします。しかし神はアブラハムとその子孫のために交わした約束を守り、イスラエル人を救い出す人物を起こします。これこそ、パロの家で育ったモーセでした。
ミデヤンの土地に住んだ後、モーセは神に呼ばれます。神はモーセに、エジプトに戻り、イスラエル人が荒野へ三日の道のりの旅をして主に生贄を捧げる許可をパロからもらうようにと告げます。パロがこの申し出を拒むと、イスラエル人をエジプトから解放させるべく、神はいくつもの害をもたらします。ナイルとエジプト中の川が血に変わって魚が死んだり、かえるやブヨや虫がエジプト全土を覆ったり、家畜が疫病で打たれたり、人や動物にひどいできものができたり、雹が降ったりしました。また、その後にいなごの大群が来て、雹の被害を免れた作物をすべて食い尽くしました。エジプト全土が3日間暗闇に覆われたこともありました。それでもパロは頑なな心を崩さず、イスラエル人を解放すると言いながら、状況が改善するとくり返し前言を撤回したのです。
ついに神が、最後の一撃を下し、エジプト全土の初子、人も動物も、すべての初子を殺します。しかしイスラエル人の家は、神の指示通り、穢れのない子羊の血を玄関先に塗り、またその子羊の肉を食べて難を逃れたのでした。
「エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。」(出エジプト12:30)エジプト人の家は死に襲われ、イスラエル人の家は、穢れのない子羊により、救われたのです。この子羊の生贄により、神が災いをもたらすことを過ぎ越したので、これは「過ぎ越し」の生贄と呼ばれます。
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神の子羊
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バプテスマのヨハネが最初にイエスを見た時、彼はイエスの神格をすぐに理解します。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と言い、翌日も「イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の小羊。』と言った。」(ヨハネ1:36)そして彼の二人の弟子がイエスに従いました。
神がアダムとイブに洋服を与えるために動物を殺したことはすでに述べました。動物を殺すというこのシーンで、世界に初めて「死」が登場します。以来、人間は自らの罪の贖いとして、神に動物の生贄を捧げるようになったのです。過ぎ越しの時にイスラエル人を守ったのも、穢れのない子羊の血でした。
しかし完璧な生贄はひとつだけです。生贄は、罪に汚されていてはなりません。天地創造以来、この世界はアダムとイブの堕落により汚されており、罪がないのは神だけです。だからこそ、生ける天地の創造主である神自身が人間の姿をとり、全世界の贖いのために十字架で死んだのです。
イエスは、ユダヤの指導者でパリサイ人だったニコデモに「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネ3:14-16)と語ります。 |
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これは、モーセの杖に置かれた青銅の蛇になぞらえた話です。出エジプトを遂げた後、「民は神とモーセに逆らって言った。『なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。』」(民数記21:5)と文句を言ったイスラエル人に、神は燃える蛇を送ります。蛇は人々を咬み、多くの人が死にました。そして彼らは自分たちの罪を認め、モーセに蛇を退治してくれるよう頼みます。神はモーセに青銅の蛇を作り、それを杖の上に置くように言います。蛇に咬まれた人はその青銅の蛇を見上げるだけで、命拾いをしました。同じように、イエスも杖、すなわち十字架の上に上げられ、彼を見上げる者は死ぬことなく命を得るのです。 |
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使徒ヨハネは、その福音書をこんな風に始めています。 |
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「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:1-5) |
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ヨハネが言う「ことば」とは、イエスが人間としてこの世に生まれる前の状態を指しています。この聖句を見れば、イエスが創造主であることが分かります。そして人間として生まれたイエスに関し、ヨハネは「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)と語っています。
神は、主イエスとなり、肉体を持つ存在としてこの世に生まれました。神の御子はイエスただ一人です。イエスのほかに受肉した神はなく、イエスだけが、神の唯一の子供なのです。ルカの福音書には、大天使ガブリエルがマリアのところに来て、身ごもっている子供をイエスと名づけるよう伝えるシーンがでてきます。マリアが自分はまだ処女であるから、そんなことが起きるはずがないと質問すると、ガブリエルはこう答えます。「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)
また、マタイ1:23では、旧約聖書の預言者イザヤの預言を引用して、「『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」とあります。
神は聖霊を通し、処女マリアに自らの子供を身ごもらせました。イエスの父は神なのです。神が人間の姿をとり、私たちに神の性質を見せて下さったのです。イエスを見る時、私たちは神の慈愛を見ることができます。イエスは体に障害のある人々を癒し、死人をよみがえらせ、悪魔に憑かれた人々を救い、悪魔を退治しました。また心に傷を負う人々を慰め、飢えに苦しむ人々に食べ物を与えました。酒税人や売春婦など、落ちこぼれと呼ばれる人々の友となりました。彼を憎み、十字架にかけた人々をも愛しました。しかし同時に、イエスは偽善を、特に立派な宗教者であると誇る人々の偽善を嫌いました。
イエスは「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30) と言い、自分が神の子供であり受肉した神であることを雄弁に語っています。そしてユダヤ人たちは「・・・イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げ、『良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。』」(ヨハネ10:33)と責めます。彼らはイエスの言葉を受け入れませんでした。神殿で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)と言った時には、イエスは後一歩のところで彼らに石打の刑で殺されるところでした。
また弟子の一人のトマスには「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネ14:6-7)と言い、イエスを見たトマスは、すでに父なる神をも知っているのだと教えたのです。 |
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「わたしは、戸の外に立ってたたく」
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アダムとイブの堕落と罪は、神の創造物すべてに染み渡りました。このために、人間は罪深く、神から離れています。パウロは、ローマ人への手紙の中で「すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることができない」と言っています。私たちは、宗教的な慣習としてヨガに励んだり、定期的に瞑想したり、献金したり、お経を唱えたり、厳しい食事制限をしたり、色々な神に祈ったりして、人間が作り出した救いの道に従おうと努力するかもしれません。しかし、救いを得るために神が求めている唯一の条件は、御子の血を受け入れることです。そしてそれを受け入れない限り、神との関係を持つことはできません。神と罪は共存できないのです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)
本ウェブサイトの著者である私は、イエスを受け入れています。イエスを受け入れる告白をしたところで何も起きないだろうと思っていました。しかしイエスを受け入れた途端、瞑想やヨーガの経が唱えられなくなり、数日の内にはそれを試みることすらやめました。本物の神との関係が必要だと思うのであれば、自分の言葉で構いませんから、イエスに自分の人生の救い主になって欲しいと祈りましょう。あなたの罪を許し、あなたの人生の導き主になって欲しいとお願いするのです。あなたの祈りに応え、イエスはあなたに永遠の命を与え、聖霊を心に住まわせて下さいます。
イエスは「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)と言いました。神との関係に入ることで、私たちが失うものは何もなく、逆に私たちはすべてを得るのです。神との関係を持つと、あなたを縛ろうとする悪を否定する力が、そして心を清廉に保つ力が与えられます。神はあなたに永遠の命を与え、神の永遠の友として下さいます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
パウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(第一コリント1:18)と言っています。神は人間を罪から贖いだす計画を立てました。私たちに永遠の命を与えるため、神が人間として生まれ、人間の罪のために十字架で死ぬ。これが、唯一有効な神の計画です。何千年もの時間を経て書かれた旧約聖書と新約聖書でも、神の救いの計画のメッセージは一貫しています。自らを神にしようとする罪深い人間や堕天使が作り出した過ちの計画を選ぶ余裕は、私たちには残されていません。
神の子羊であるイエスを受け入れるという神の計画を拒否すれば、あなたは永遠に神から離れた存在になります。あなたの魂は、神のいない、冷たく、殺風景な永遠の苦しみに置かれるのです。そこは人間のために造られた場所ではなく、悪魔や堕天使のために造られた場所です。神は人間として生まれ、十字架で死んでまで、人間が地獄へ行くのを阻もうとしました。地獄は、それほどひどい場所なのです。
捕らえられ十字架で死ぬ前、イエスは一人血の汗を流しながら、苦しみの中で祈りを捧げました。この血の汗は、極端なストレス環境におかれた人間に起きる珍しい現象です。イエスは「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈りました。彼は、自分がこれから経験する痛みを理解していたのです。殴られ、蔑まされ、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、あざけられ、釘で打たれ、十字架で息絶え、剣で体を貫かれることを、知っていたのです。
聖書では「地獄」という表現が50以上もあります。 |
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「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」(ルカ12:4-5) |
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神は善であり、慈悲深い存在です。しかし同時に神は正義であり、罪による神への冒涜をゆるしません。この罪を取り除く神の計画-神の御子イエス・キリスト-を受け入れない限り、神と永遠を過ごすことはできません。思い出しましょう。エジプトですべての初子を殺したのは主であり、サタンではありません。主は、パロにいくつもの災害を送り、イスラエル人を解放させました。パロがイスラエルの解放に同意すると主はエジプトから災害を取り除きましたが、その度にパロが気を変えると、新たな災害が与えられました。主はパロの初子だけでなく、エジプト中の初子を殺しました。王の不正行為の責任が、エジプト人全員に課せられたのです。
同じように、十字架で死んだ神の御子を受け入れるかどうかという判断に関し、神は私たち一人一人に、その責任を問いただしています。エジプトに対する神の怒りからイスラエルを救い出したのは、穢れない子羊の血でした。同じように、私たち人間を地獄から救い出してくれるのは、罪のない神の御子の血です。永遠の命を得るために私たちがしなければならないことは、2000年前にエルサレム郊外の十字架上で流された御子の血を受け入れることだけなのです。
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